親知らずの抜歯から一夜が明けた。昨夜において、麻酔が切れた後も痛みは全くなく、無事に抜歯を終えることができた安堵からか、昨夜の夢は爽快感をもたらすものであった。やはりその日の精神状態が、夢の種類と質に影響を及ぼすということを身をもって知る。
心身を回復させる必要がいつも以上にあったためか、昨夜は十時前に就寝したにもかかわらず、今朝は七時に起床した。起床後、歯の痛みもなく、今日も活動的な一日になると確信した。起床時間が遅かったため、早朝のオランダ語の学習を終えたところで、あたりが明るくなっていることに気づいた。
ふと書斎の窓の方向へ視線を向けると、フローニンゲンの空にかかった薄い雲が、朝日によって優しい赤紫色に照らされていた。私は居ても立っても居られなくなり、窓枠を額に見立てて景色を眺めるのではなく、窓に近寄り、窓枠からその景色の中へ飛び込むかのように、その優しい赤紫色に輝く大きな一筋の雲を眺めていた。
このように、刻一刻と姿を変える景色を眺めていると、ゆったりとした時間感覚の中に浸ることがいかに大切かを考えざるをえない。これは年末年始に一時帰国した際に感じたことだが、やはり都市部と都市部以外の場所において、流れている時間の感覚が全く違うのである。
これは非常に個人的な見解であるが、都市部の時の流れはあまりにも早く、人間の成長や発達を考えた場合に、そうした時間の流れは何かをゆっくりと育んでいくことには適していないと思うのだ。時に、優しさを失った、暴力的な時間が都市部に流れているとさえ感じることがある。
もちろん、都市部の中にも、随所に時間の流れが緩やかな場所が存在していることに気づくことがある。大事なのは、場所ごとに歴然と異なる時間の流れを察知することであり、そうしたゆったりとした時間の流れる場所を都市部の中に残していくことであるような気がしている。
さもなければ、暴力的かつ画一的な時間の流れに汚染され、何かをゆっくりと育んでいくことはますます難しくなってしまうだろう。
時の流れに触発され、時代の流れについてもとりとめもない考えが頭に浮かんでいた。現在の自分が行っている仕事や今後自分が取り組む仕事と時代との関係について考えていたのだ。
つまり、仕事への取り組み方と時代との関係をどのように考えるかという問題である。端的に述べると、どうやら私は、時代の流れに乗るのでもなく、時代の流れに逆行するのでもなく、時代そのものを超越した形で仕事に向き合いたい、という思いを強く持っていることがわかった。
時代というのは、とても大きな見えない力を持っており、時代に逆行しながら仕事を前に推し進めていくことはとても難しい。同様に、時代に乗りながら仕事に取り組む場合、それは快適さの中で仕事を前にうまく進めていくことができるかもしれない。
しかしながら、時代に乗りながら仕事に取り組む場合、その速度があまりにも早いがゆえに、仕事の中で自分が真に深めたいことを深められないのではないか、という懸念があるのだ。ここから私は、時代そのものを超越した形で己の仕事に向き合う必要を強く感じたのである。
それは時代に逆行するよりも、時代に乗ることよりも困難なことかもしれない。だが、今の私は時代や時そのものを超越した形で生きることを強く望み、おそらく、そうした生き方しかできないひどく不器用な人間なのだと思う。2017/1/28