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687. 対話の成立へ向けて


将棋の棋士が対局後に感想戦を行うように、気づけば私も日々の生活の中で常に感想戦を行うようになっている。正直なところ、日々の出来事を振り返ろうと意識しているわけでないのだが、もはや振り返らざるをえない状況に自分が常に立たされているのを感じる。

言い換えると、日々の振り返りは必然的なものであり、それを行わなければ、たちまち自分が袋小路に迷い込んでしまうかのような緊迫感があるのである。世間の風潮として、振り返りが奨励されているが、私はもはや振り返りに対して特別の見返りを期待しているわけではなく、それをしなければ前に進んでいけない状況に追い込まれているがゆえに、毎日を振り返っているのだと思う。

確かに、振り返りを前に進むための必然的な営みとして捉えている点で、完全に無私から生まれた行為だとは言えないかもしれないが、日々の振り返りは少しばかり無私から生まれた行為に近づきつつある。

まさに私が真に望むことは、日々の活動や行為の全てが無私から生まれ出てくることである。ここに到達することができれば、今感じている諸々の足かせを取り払い、より自由な狂気さの中で日々の仕事に打ち込むことができるだろう。

自分の探究や仕事を無私から生み出していくまでに、後何年の月日を要するのかはわからない。だが、何年かかったとしても、そこに到達する必要性が強くあると思う。そこに到達して初めて、自分の仕事が真に自分の仕事になるのだと思う。 そのような思いから、今日の出来事を少し振り返っていた。振り返りの中で、今日は、対話には作法があり、礼儀があるということを実感させられるような一日であった。

対話の作法に関しては、その射程が広く、未だ自分の中でもその中身が固まっていない。しかし、対話の礼儀に関して、そもそも相手と実りある対話をするためには、こちら側にある程度の知識と経験がなければならないと思うのだ。

そもそも、こちら側に相応の知識と経験が欠落している場合、それは実りある対話に繋がらないばかりか、相手に対して失礼であり、同時に、相手からの単なる知識や経験の伝授にとどまってしまうと思うのだ。

二人の人間の中で、双方向的な知識と経験の共有が行われるためには、こちら側にふさわしい知識と経験がなければならない、と実感するような体験をした一日であった。要するに、自分の勉強不足を痛感するような日であったということだ。

この経験によって、私は特定の人とは対話ができるが、依然として多くの人とは対話ができないのだという事実を突きつけられた気がした。多様な他者と対話を成立させることは非常に難しく、それを可能にするためには、さらなる鍛錬と精進を自分に課していく必要があるだろう。2017/1/25

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