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681. 辻邦生『夏の砦』からの招き


今日も一日が終わった。今はまだ冬なのか、春がやってきたのか、それすらもわからない。なぜなら、今日は一日中書斎にこもり、窓の景色を忘れて自分の仕事に熱中していたからである。

読むことと書くことしかない生活。この二つの活動を中心にした生活が延々と繰り返される日々を過ごしている。

このような生き方を推し進めることに対して、時に迷い、時に不安になり、時に焦りのようなものが生まれてくる。だが、それでも、私は読むことと書くことを進めていかなければならない。

私は読むことと書くことでしか、日々の生活を形作っていくことができない人間なのだと知る。それを知った時、諦念にも似た感情がどこからともなく滲み出す。 数日前、狂気さを超えた狂気さが欲しいと思った。こうした思いも、人間が持つ欲望の一つなのだろうか。

とにかく、狂気さを超えた狂気さの中で、活動と完全な一致を果たし、その一致の中でひたすらに仕事に打ち込みたいのだ。ここにあるのはやはり、足りないものを埋めようとする欠乏感だろう。

自分には狂気さが依然として欠けている、そのようなことを思わずにはいられない。「発狂」というのは、狂気さに飲まれた故に引き起こされる現象だと思う。

狂気さに飲まれるのではなく、狂気さを飲み込む形で、狂気さを超えたいと強く思う。これができなければ、残りの人生を全て懸けて自分の仕事に打ち込むことなどできないだろうし、生涯を通じた創作行為を継続させていくことなど土台不可能な話だと思うのだ。 そのようなことを思いながら、夕方まで仕事に熱中していた。仕事がひと段落したところで私は、辻邦生先生の『愛、生きる喜び』の続きを読むことにした。

時を忘れたままこの書籍に読みふけっており、あるところでふと、「自分は『夏の砦』を読まなければならない」という衝迫的な思いに苛まれた。その瞬間、私はこの本を読んでいないにもかかわらず、感情が生まれる底の底から、こみ上げてくるものがあった。 『夏の砦』という作品は、知人に勧めてもらったものであり、一昨年日本に滞在していた時に購入していたものである。しかし、当時の私は、その小説を読むことなく、表紙をただ眺めるだけであった。

この小説は、今から50年ほども前に出版されたものだ。小説を購入した時の作品解説を思い出した時、主人公は確か北欧で生活をしているという状況設定だったような記憶が蘇ってきた。

その記憶から、「この夏、自分は北欧に行く必要がある」という思いと重なるものがあった。これは単なる偶然の一致かもしれないし、「北欧」というのは単なる小さな共通事項に過ぎないかもしれない。

それでも私は、この作品と自分を結びつける物語を自分の中で見出したことは間違いない。『夏の砦』という作品には、自分にとって大切な何かがあるにちがいない。

そして、北欧には、自分にとって大切な何かがあるにちがいない。そんなことを思わずにはいられなかったのだ。2017/1/24

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