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680. 丸い日本語、四角い英語


今日の午前中は当初の計画通り、研究論文の執筆に取り組んでいた。カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を活用した測定手法の測定者内信頼性を算出するために、統計プログラムのRを活用した。

Rを触るのは久しぶりであったが、どのようなプログラムコードを書けばいいのかを含め、作業手順が随分と自分に定着していることに気づいた。そのため、予想していたよりも苦労することなく、測定手法の信頼性を示すカッパ係数を算出することができた。

結果は0.944であり、一般的に、極めて高い信頼性を持つとみなされる0.8から1.0の範囲に収まっていた。ただし、私は心理統計学の専門家ではないため、算出の方法を含め、心理統計を専門とする副担当の論文アドバイザーであるスーザンに確認してみようと思う。

とりあえずカッパ係数を算出した後、論文内におけるコーディングシステムに関する章を書き進めていた。参考文献と論文執筆を行き来していると、時が経つのがあっという間であった。気づけば昼食の時間を過ぎていた。

六年前にジョン・エフ・ケネディ大学に留学した時と比べると、英文を書く技術が向上していることに改めて気付く。日本語を書く際にも、語彙の選択や文章の構造を決定するのにある程度の時間を必ず要するが、英語を書く際のそれと比べても、両者はほとんど遜色がなくなっている。

それぐらい、英語で文章を書くことが自分に馴染み、非常に自然な行為に変貌を遂げていることに気づく。思い起こしてみると、六年前は、自分の言葉であるはずなのに、なぜ自分が紡ぎ出した英語は自分の言葉のように感じられないのか、ということで頭を悩ませていたように思う。

それから六年間ほど英語と真剣に向き合ってきたことによって、英語という一つの言語体系が自分の深層部分に根ざすようになってきたのだと思う。ある言語体系が自己の深層に根ざし、そこから言葉を紡ぎ出していけるようになるプロセスは、英語のみならず、日本語においても終わりのないものだと私は思う。

現在、オランダ語を毎日継続的に学習しているが、オランダ語はそうした次元に辿り着く前の段階にある。そのため、少なくとも、日本語と英語の双方に関しては、両者の言語体系がより自己の深層部分に根付いていくように修練を続けていく必要があるだろう。

英語という言語が自己の深い部分に根付き始め、そこから自分の言葉を紡ぎ出せるようになったことに対して、とても嬉しく思う。一昔前のことを思い出すと、英語で文章を執筆している際に、一つのセンテンスと次のセンテンスに移行する際に存在する「虚空な感覚」が非常に薄気味悪いものであったのを覚えている。

特に英語の学術論文では、センテンスとセンテンスの繋ぎ言葉に、日本語で言う「そして」「また」という接続詞を多用しない。洗練され、密度が濃いいと感じさせてくれる学術論文ほど、そのような余計な言葉が一切入っておらず、一貫して言葉の緊張感が保たれているのだ。

六年前を振り返ってみると、私は日本語の感覚を引きずりながら、英語の文書を書いてしまう癖が抜け切れておらず、そうした余計な繋ぎ言葉を入れないで文章を書くことに対して、大きな違和感を覚えていたのである。

こうした違和感こそが、センテンスとセンテンスの間に溝がある感覚を私に引き起こしていたのだと思う。それが、虚空な感覚の正体である。

一方で、日本語の文章では、そうした繋ぎ言葉のおかげで、文章が自然な形で流れていくというのは実に面白い。両者の言語を用いて文章を執筆している時の自分の感覚を書き留めておくと、日本語の文章を書いている最中は、文と文との連続的なつながりから連続性が生み出され、そこから丸い全体が浮き上がってくる感じである。

一方、英語の文書を書いている最中は、文と文との非連続的なつながりから連続性が生み出され、そこから四角い全体が浮き上がってくる感じがするのだ。そのような感覚的な違いが確かに自分の内側にあるということを、昼食を取りながらぼんやりと考えていた。2017/1/24

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