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677. 触れられぬもの、そして楽しむことについて


夕日が沈むのを書斎の窓から確認し、夕方の探究活動も終わりを告げたことを知る。仕事の区切りのいいところを見計らって、浴槽に浸かった。

いつもこの時間は、心身を穏やかにし、くつろぎと充足感を私にもたらしてくれる。浴槽に浸かってしばらくすると、私はある概念についてだけ、未だ全く踏み込むことができていないことに気づいた。

そして、それが人間として生きる上で最も大切なテーマであると思っている自分がいたのである。それは、今の私が大切にしている「探究活動」と呼ばれるものや「仕事」と呼ばれるものを遥かに超えて大切なものだと思う。

ただ、今の私には、その概念について足を踏み込んでいけるだけの器もなければ、内面の成熟もない。そして、その概念は、概念を超えて強烈な実存的体験を伴ったものであることに加え、人間が不可避に経験するであろう「死」とも密接に関わっているがゆえに、今の私には手に負えないものなのだと思う。

このテーマに足を踏み入れることができるようになるまでの道のりは、とても長く険しいように思えて仕方ない。浴槽から上がり、再び書斎の机に向かった。

そういえば、今日は一日中、文章を読むことや書くことを行っていたにもかかわらず、それらを行っていたことに気づいていなかった自分がいることに気づいた。さらには、今日という一日を通じて、研究していることや仕事をしていることを忘れている自分がいたのである。とても不思議な日曜日である。 そこからふと、以前どこかで言及した「楽しむ」という行為について考えていた。やはり、楽しむという行為は、楽しもうと思ってもたらされるものではないという気がしている。

真の楽しさは、それを求めてもたらされるのではなく、内側から否応無しに湧き上がるものだと思うのだ。同時に、「自分はこれを楽しんでいる」と述べるとき、それは真にその行為を楽しんでいるとは思えないのだ。

それはまだ、楽しむという行為と一体化していないことの証拠であると思えて仕方ない。そこでは、楽しむという行為が下手に対象化されてしまっているのである。

真に楽しむという行為と一体化している人は、楽しんでいることに気づているとは到底思えない。なぜなら、楽しんでいる自分が楽しむ行為に他ならないからである。 そこからやはり、私は日々の行為を決して楽しんでなどいないのだと思う。なぜなら、私は日々の活動を楽しむ行為そのものに他ならないからである。

それが楽しむという行為が持つ全体性との一致であり、決して部分との一致ではないことの証拠だろう。私たちが部分と一致しようとするとき、そこにはすかさず「対象化」や「客体化」という罠が生じる。

全体との一致とは、対象化や客体化などというものが全く及ばない現象なのである。全体と一致するというのは、それとの合一化であり、それへの没入である。

そこには「楽しむ」などという余裕や余地など一切入り込まないのだ。そうした余裕や余地がないほどに、自分自身が楽しむ行為に他ならないからである。

だから私は、「これを楽しみたいと思っている」「これを楽しんでいる」という発言をする人たちを信じることができないのだと思う。そうした発言の裏には、その人と楽しむという行為の間に存在している埋めがたい距離が見えるのである。

こうしたことからも私は、楽しむことの真の本質は、楽しむという行為が生み出す全体との一致であり、小さな自己を超え出ていくことだと思うのだ。今日はそのようなことを考えさせてくれる一日だった。2017/1/22

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