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647. 連想的な思考


昨日から本格的に探究活動と仕事が再開された。日本に一時帰国する前と比べて、活動内容自体に変わることは何もない。ただし、活動への向き合い方と進め方に変化が見られるのは確かである。

これまで以上に平穏な心の状態の中で活動と向き合い、大きな全体を見通しながら活動が進められているという違いがある。印象的だったのは、学術論文や専門書籍の中で記述されている言葉の捉え方である。

当然ながら文献の細部を理解するために、焦点を狭めることがあるのだが、焦点を狭めたとしても常に全体が自分の内側に流れ込んでくる感覚があるのだ。つまり、部分に着目しながらも全体が把握できているという感覚だ。

そこからさらに、一つの文献が生み出す言語世界や情報世界を一飲みにしているような感覚も自分の中で生じている。このように、部分に焦点を当てながらも、それらの部分が寄せ集まったものを超えた形で生み出される全体を把握できているのは、自分の中に新たな眼が獲得されたこととも関係しているだろう。

新たに獲得された眼の真価は、自分の内側の世界をこれまでとは違う次元で把握するためのものだ。しかしながら、今はその真価を発揮するところに至っておらず、外側にある情報世界を見通すことに効力を発揮しつつある。そのようなことを感じている。

昨日の文献調査の中で、「人間は論理的な生き物というよりも、連想的な生き物である」という言葉が依然として頭から離れない。確かに私たちは、論理を司ることができるが、近年のコンピューターの発達に伴い、論理思考に関しては、コンピューターの方に軍配が上がるように思う。

私たちが自分の頭で論理を積み重ねていくことには限界があるとつくづく感じる。これは、現在ダイナミックシステムアプローチを活用したコンピューターシミレーションなどを行っていると特に実感することである。

動的なシステムの複雑な挙動を考える際に、私たちが発揮する論理思考では心もとないのである。一方、私たちは、優れた連想的思考を発揮することができる。今のところ、これはコンピューターではなかなか真似のできないものだということをよく耳にする。

私たちが連想的思考を発揮できる背景について少しばかり考えていた。一つには、私たちは日々、無数の意味の網の目に組み込まれて生きているからなのではないか、と思った。

無数の意味の網の目の中で生きるためには、網の目を柔軟に行き来することが求められる。逐一、論理を使っていては、この網の目を自由に移動することに不都合が生じるように思うのだ。

さらには、私たちが日々の生活の中で獲得する意味は、複雑な網の目の中で入れ子状になっており、それらを論理を用いて解きほぐしていくことは至難の技である。論理を用いるのではなく、連想を用いることによって、私たちは意味を理解し、意味を生み出しているのではないかと思う。

冒頭で言及した、全体を把握する眼というのは、多分に連想的な思考と関係していると思った。オランダに戻ってきてから、一つの文献が生み出す言語世界と情報世界の全体を、論理的な思考を用いて把握しているというよりも、連想的な思考を用いて把握していることに気づいたのだ。

確かに、細部の情報を理解するときには論理的思考が働いているだろうが、全体を把握するときには連想的思考が働いていることがわかる。そうでなければ、全体を一挙に捉えることなどできないだろう。

論理を積み重ねていくことは、どこまでも部分を積み重ねていくことに等しく、そうしたアプローチでは、部分を超えた全体を把捉することは到底できない。また、興味深いのは、部分を捉えるために論理的思考を働かせている時ですら、その背後には必ず連想的思考が息づいているのを感じるのだ。

こうした連想的思考を用いて、より大きな知識体系のネットワークを自分は構築しようとしているのだろう。2017/1/12

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