単刀直入に述べると、シンクロナイゼーションが絶えず生じている時空間があるような気がしてならない。そして、そうした時空間の中を今の私は生きているのだ、という実感が強くある。
こうした実感をもたらしてくれたのは、一昨年と昨年の間、日本に滞在している期間に定期的に受けていたエネルギーワークのおかげだと思う。その方のエネルギーワークを定期的に受けることによって、シンクロナイゼーションが絶えず生じる時空間にアクセスできるだけの身体と精神が構築されたのだと思う。
いったんそのような器が出来上がると、その後の生活の中で、一見すると理性では解しがたい同調現象が頻繁に身に起こるようになった。その時の私はおそらく、シンクロナイゼーションが絶えず生じる時空間に時折アクセスすることによって、理性の範疇を超えた同調現象を体験していたのだと思う。
しかし、もはやそうした同調現象は何ら驚くべきものではなく、常態的に体験する現象に変容したのである。言い換えると、当時の私は、同調現象が起こる空間とは異なる場所で生活をしており、時折そうした同調現象が生じる空間にアクセスしていたのに対し、今の私は、常に同調現象が起こる時空間の中で日々の生活を送っているとしか思えない、ということである。
ダイナミックシステム理論の観点から説明すると、シンクロナイゼーションとは、二つのシステムが何らかの形で結びついている——カップリングしている——場合に生じるものなのだ。要するに、私たちが日常生活でシンクロナイゼーションを実感する時、その対象と私たち自身が何らかの形で密接に結びついているのだ。
こうした説明から一気に飛躍してしまうが、二つのシステムを同調させる力を生み出す時空間の中で生活を形作ることが可能になった時、全ての事象とシンクロナイゼーションを起こしうるのではないか、という極めて形而上学的な考えに至った。このような説明論理を立てておかなければ、ここ最近の私の日常で生じる現象をうまく説明することができないのだ。
日本からオランダに戻ってきた翌日の朝、さっそくある知人の方とスカイプで対話を行った。その方が対話の中で、シンクロナイゼーションの話題を切り出した時、ここでも同調現象が生じていると思った。
二人の意識世界の中で、関心事項が共振し、対話が形作られる様を目撃したのである。また、一昨日のヘルシンキ行きの機内の中で、あるCAの方とノルウェーの話になった。
というのも、昨年の夏以降、ノルウェーという国そのものとそこにある自然に対して、何か惹かれるものがあり、欧州に戻る前日のホテルのカフェで見た、ノルウェーを特集した旅行雑誌によってノルウェーに対する想いが強まっていたのである。
そして非常に偶然なのだが、そのCAの方は生まれてから12歳までノルウェーで生活をしていたと言う。その方からノルウェーについてあれこれと教えてもらったことは、また一つのシンクロナイゼーションだと思う。
つくづくシンクロナイゼーションとは、起こそうと思って起こせるような類いのものではないと感じる。シンクロナイゼーションが生じる時空間の中で生きることができるのは、望ましいことなのかはわからない。
ただし、一つだけ言えることは、シンクロナイゼーションは他者との密接なつながりを感じさせてくれる現象であるがゆえに、同調現象が起こる時空間の中で生きれることは、他者とのつながりを絶えず感じさせてくれる感謝すべきことなのだろう。2017/1/9