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633. 名付けと器の拡張


いよいよ日本に滞在できる日は今日で最後となった。昨日、ある会社を訪問させていただき、そこで大変興味深い話をいくつか聞かせていただいた。その中でも一つ、印象に残っている話がある。

それは、名付けることの重要性である。どのような経緯でこの話題となったのか定かではない。しかし、この話題には内面の成熟に関する非常に大切な何かが潜んでいることは確かである。

この話題の輪郭を簡単に紹介すると、対象物に名前が付いた瞬間に、それに魂が吹き込まれるということである。例えば、製造設備に「〜君」「〜ちゃん」と名前を付けることによって、その製造設備はもはや単なる機械ではなくなり、命を与えられたかのような存在になる。

名前のない製造設備と名前の付いた製造設備の両者を比較してみたとき、私たちはどちらを大切に扱うだろうか?回答は言わずもがなであろう。

名前のない人間と出会ったことはあるだろうか?私たちは名前を付与されることによって、固有の魂が吹き込まれるのではないか、と思うのだ。

確かに、名前がなくとも人間には魂が備わっていると言えるだろう。しかし、その魂を真に動かすものが名前なのではないだろうか。名前とは、事物固有の魂を真に躍動させる媒介物なのではないかと思うのだ。

人に名前が付されることによって愛情が注がれ、物体に名前が付されることによって愛着が湧くといういうのは紛れもない事実であろう。だが、話はそこで終わらない。

「名付ける」という行為は、それ以上の意味を内包しているように思えてならないのだ。人間の内面の成熟に対して、この名付けるという行為は極めて大きな役割を果たすと考えている。

これは渡欧する直前の日記の中で言及したかもしれない。私たちの内面世界には、未だに名前の与えられぬ存在者で溢れているのである。ここで述べている存在者とは、体験や経験、感情や感覚といったものである。

意識の器の拡張とは、内面世界の存在者をどれほど抱擁できるかの度合いであると言い換えてもいいだろう。そして、内面世界の存在者を抱擁するというのは、まさに名付けるという行為に他ならないのではないかと思っている。

そこから何が言えるかというと、未だ名前の与えられぬ存在者に名前を授けるという行為をしない者には、器の拡張など起こりようがないということである。確かに、私たちは日常の中で、言葉では表現できない体験や感情と頻繁に出くわす。

興味深いのは、私たちの体験や経験、感情や感覚というものは、言葉に先行し、言葉よりも大きな土壌を持っているような気がしてならないということである。しかしながら、内面の成熟を進行させる要諦は、徹頭徹尾、言葉に先行したものに対して言葉を付与するという名付けを行うことだと思うのだ。

私たちの体験や経験、感情や感覚といったものに対しても、固有の魂が与えられているのではないかと思うことがよくある。それらの魂に命を吹き込み、真に躍動する存在者に変容させるために、名付けるという行為が必要なのだ。

要点をまとめると、私たちの内面世界は未だ名前の与えられぬ無数の存在者で満ち溢れており、未だ名前のなかったものに対して名前が与えられることによって、それらの存在は自己に抱擁される形で躍動を開始する。

その躍動が、私たちの器を内側から外側へと拡張させるのだ。2017/1/5

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