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622. 隅田川での邂逅と肯定


今日は日本橋や両国あたりの東京の下町を歩きながら、まるで自分が海外を旅するのと同じように、道行く人たちや目に見える建物を観察していた。終始、自分の目を上下左右に動かしながら、東京の街を歩いていたのである。

自分の目に映る全てのものが新鮮であり、強烈な好奇心を私にもたらす。青々とした新鮮さに包まれた真冬の東京の街の中で、私は黄色がかった感情に包まれていた。

街を行き交う人々の動きが止まって見え、逆に、街に存在している静止した物体が動いているように見えた。静と動の逆転現象を知覚した時、静と動は一つの事物が常に内包している両側面だと改めて知る。

それに気づいた時、自分の内側で動いていたものが止まり、止まっていたものが動き出すような感覚が湧き上がった。そうした感覚を抱えながら、墨田区にある『すみだ北斎美術館』に向かっていた。

目的地である北斎美術館に到着すると、この日はなんと休館日であった。事前に確認した際には、休館という情報がなかったので、一瞬残念に思った。

美術館前の通りに掲げられた案内板に目を通すと、80歳を過ぎてからも創作意欲が衰えることはなく、常に新しい画法を取り入れながら、浮世絵の道をさらに極めようとする北斎の姿勢を伺うことができ、打たれるものがあった。

日本に一時帰国する数日前、オランダ人の知人とディナーを共にした。その方は先週末に75歳となり、100歳まで生きると述べていた。私も物心ついた時から、少なくとも100歳まで生きると固く誓っていた。

しかしながら、最近になって、自分の資質と志を考慮に入れると、111歳までは少なくとも仕事をし続けなければならないと思うようになった。このような計算をするのは馬鹿げているだろうし、111歳まで仕事をするために、今の食事や睡眠時間、そして運動を含め、毎日の過ごし方を意識しているのは馬鹿げているだろう。

でも私は、北斎と全く同様の考え方を持っているのだ。死ぬ直前の最後の最後まで、探究をやめたくはないのである。

北斎美術館に向かう最中、隅田川をかける橋に辿り着いた。橋を一歩一歩進み、橋の真ん中に差し掛かった時、私は思わず足を止めた。

足を止めた瞬間に、自分の生き方は、間違いなく馬鹿げていると思った。なぜ自分はこのような生き方をしているのか、全く合点がいかず、橋の上から隅田川をぼんやりと眺めながら考えていた。

馬鹿げていると思う自分を超えた先にいる自分がいるのを知っているし、この生き方を馬鹿げていると思う自分が何によって作り出されているのかも理解していた。隅田川の橋の上で私が意見を求めていたのは、この馬鹿げた生き方を肯定してくれる、今の自分のその先にいる自分であった。

いつもこの自分は私に対して厳しいが、こうした馬鹿げた生き方を受け入れ、それを背後から激励してくれる大切な存在である。そして直感的に、この馬鹿げた生き方を肯定してくれる自分というのは、111歳で死ぬ直前の自分なのではないかと思ったのだ。

臨終を迎える自分が、それまでの自分の人生を完全に肯定することができるというのはなんと幸運なことだろうか。そうであるならば、私は今のこの馬鹿げた生き方を徹底的なまでに貫いていかなければならないと思った。

誰も見ていないところで、ひたすらに精進を続け、一つ一つ自分の仕事を積み重ねていくこと以外に、今の自分を納得させることは何もない。この生き方を貫いて毎日を生きていれば、仮にどこかで自分の生が尽きることがあったとしても後悔は全くないだろう。

111歳の自分を信じ、彼に全てを委ねてみようと思った。これが自分を真の意味で信じた生き方なのかもしれない。2016/12/26

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