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593. ホロン階層を持つ発達課題


昨日ふと、ここ最近の自分の文章を眺めてみると、起床した時の感覚や情景描写などから言葉を紡ぎ出していることが多いことに気づいた。文章にするテーマが決まっている時でさせ、突然にそのテーマから言葉を紡ぎ出していくのではなく、その文章を今まさに書こうとしている自分を取り巻く感覚や情景描写を行うことが多いようだ。

文章を書くという行為も運動と同じで、準備体操が必要なのかもしれない。文章を書いているその時にしか湧き上がらない感覚やその瞬間に目に入る情景を描写することは、私にとって、文章を書く準備体操として機能しているのだろう。

その場でしか生じない内側の感覚というのは、非常に大切なものだと思う。時に、文章のテーマ以上に、そうした感覚を書き留めておく方が、自分にとっては重要なことさえある。確かに、その場で生起する感覚を描写することによって、本来の文章のテーマと大きく脱線することもあるが、不思議なことに、これから書こうとする文章のテーマと大きく合致することもあるのだ。

これは一体どういうことなのだろうか?文章のテーマは、形になる前から、書き手に対してある感覚を触発しているようなのだ。そのように考えると、こうした感覚が文章のテーマと合致するのは必然的なように思う。 昨日と同様に、朝から久石譲氏の音楽を流している。ある曲に差し掛かった時、突然、四年前のサンフランシスコ時代の記憶が蘇ってきた。それはサンフランシスコの街にある険しい坂道を登っている記憶と、坂道の頂上からサンフランシスコの街を一望した時の清々しい記憶であった。

特定の音楽が特定の記憶と紐付いていることは、非常に不思議な現象だと思う。時を忘れるかのように、そして時を逆戻りするかのように、しばらくその音楽に耳を傾けていた。 振り返ってみると、サンフランシスコ在住時代に私が向き合っていた課題を、自分がどのように乗り越えていったのか定かではない。おそらく当時の課題は、自律的な自己の確立にあったように思う。

この課題は非常に大きなものとして、自分の目の前に立ちふさがっていたと記憶している。先日、論文アドバイザーのサスキア・クネン教授が執筆した秀逸な論文 “Development of meaning making: A dynamic systems approach (2000)”を読んでいた。

この論文は、ロバート・キーガンの発達理論の中にある推測的な仮説モデルをダイナミックシステムアプローチのシミレーション手法を用いて検証していくという、非常に興味深い内容を取り上げている。 この論文を読みながら、発達課題を当人が自覚することの難しさと、発達課題を乗り越えていくことの難しさを感じていた。特に、発達課題を乗り越えていくというのは、至極難しいものだと思うのだ。

なぜなら、発達課題とはそもそも、明確な一つのまとまりとして私たちに提示されているわけではなく、無数の要因や要素が絡み合う複雑かつ曖昧な総体として私たちに提示されており、そもそもそれを「乗り越えていく」という言葉が通用しないように思えるからである。

上記の中で、当時の私が抱えていた課題を「自律的な自己の確立」という一言で表現したが、実際には、もっと曖昧で複雑な課題であったように思う。こうした課題を自分が「乗り越えた」と言い切ることができないのは、もしかすると、発達課題にも、「含んで超える」という発達の原理が当てはまるのではないか、と思うのだ。

つまり、一般的に発達心理学のテキストで言われているように、発達課題を完全に乗り越えてから次の発達段階に到達するのではなく、発達課題とはそもそも、常に以前の課題の一部を引き継いでいるようなものに見える、ということである。

そのため、発達課題を乗り越えながら進むのではなく、発達課題を引きずりながら前へ進むことが重要な気がしているのだ。アメリカの思想家ケン・ウィルバーが提唱した「20の進化の法則」の一つに、「リアリティはホロンで構成されている」というものがある。

発達課題というのも、私たちの発達プロセスと同様に、ホロン階層で構成されていると考えてもおかしくはないだろう。それゆえに、私たちは、曖昧模糊とした発達課題を常に引きずりながら、それを含んで超える形で歩みを継続させていくしかないのだろう。2016/12/6

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