言葉の密度について、昼食をとりながら再び考えていた。これまでの自分の日記文章を眺めてみると、言葉の密度にばらつきがあり、常に変動していることがわかる。
こうした日記を書くときに、いつも私は二つの方法で文章を書いていることに気づく。一つは、あらかじめ特定のテーマを設定し、それについて文章を書いていくというものである。
文章というのは、基本的にこちらの体裁をとるものだろう。主張したいテーマがあり、それについての構成や盛り込むべき論点などを事前に決定し、それに沿って文章を執筆していく、というのが文章の基本的なあり方だと思う。
こうした文章を書くときには、事前にタイトルが決まっており、そのタイトルに合わせた言葉が紡ぎ出されていくことになる。一方で、非形式的な日記という特徴を踏まえ、特に何もテーマを設定しない状態で、文章を書くというリズムに乗りながら、テーマを探索し、そのテーマについて考えを書き留めておく、という方法を採用することがある。
この方法を採用すると、事前の構成案がないため、当然ながらストーリーが錯綜してしまったり、脈略のない文章が生まれてしまうという危険性がありながらも、この方法でしか生まれない言葉や文章のリズムがあるように思うのだ。
両者のスタイルとそれぞれの言葉の密度を比較してみると、概して、事前に特定のテーマを設定して文章を書いていくときのほうが、言葉の密度が高いように思う。確かに、後者のスタイルの中では、言葉の密度が希薄なものになりがちなのだが、後々に密度が高くなる可能性を秘めた言葉が生まれることを頻繁に経験している。あるいは、後々に密度の高い言葉を生み出すテーマが見つかることがあるのだ。 その他にも、非常に基本的なことかもしれないが、文章を執筆するときの自分の精神状態や身体状態に左右される形で、言葉の密度が変化することにも気づくことができる。昨日、私に大きな影響を与えてくれた先達の日記を読むことの意義について言及していたように思う。
彼らの日記を読んでいると、全体を通して常に高い密度の言葉が綴られていることに気づく。しかし、彼らにも精神的・身体的な変動性があるため、言葉の密度が非常に微細なレベルで変動していることがわかるのだ。
ここからも、言葉というのは多分に精神的であり、多分に身体的なものなのだということに気づく。言葉の密度の変動性は、私たちの精神的・身体的な変動性と密接に関わっているのである。
やはり、強靭な密度を持つ言葉の持ち主は、強靭な精神と身体を兼ね備えており、言葉の密度の変化は、書き手の内側のリズムを如実に物語ってくれるものなのだと思う。 最後にもう一つ、自分が取り上げるテーマや項目によっても、言葉の密度にばらつきが生まれることがわかる。例えば、私が長らく親しんだ構造的発達心理学の観点から知性や能力の発達について取り上げるときと、直近の数年で探究を開始した複雑性科学の観点から知性や能力の発達について取り上げるときとでは、やはりそれらの文章で表現される言葉の密度には違いあるように思う。
自分の内側で、一つの知識体系が構築されていくというのは、まさに様々なテーマや項目に関する自分の言葉の密度が高まることによって、一段高い次元でそれらのテーマや項目を束ねられることを意味するのだろう。
今、私が取り組んでいることは、テーマや項目ごとの自分の言葉の密度を分析し、一つ一つの言葉の密度を高めるために意識的に文章を書き留めておく、ということである。この作業も、自分の内側の成熟過程と同様に、歩みは非常にゆったりとしたものである。