日々の状況がいかなるものであろうとも、そして、その日一日がいかに昨日と変わらぬものであるように思えたとしても、毎日絶えず文章を書き始めてから、ある程度の期間が経った。何かを継続させていくことの意義と価値を、体験を通じて大いに実感している。
今日は、昨日と異なる目新しい出来事があったのだが、不思議なもので、そうした珍しい出来事が自分の内側を刺激し、言葉を生み出してくれるとは限らないのだ。言葉がよどみなく流れるように生成されてくる時と、言葉の流れに滞りがある時の差について考えなければならない。自分の言葉がどのような状況下で生成されてくるのかを、まだ全くわかっていない、というのが実情である。
オランダで生活を始めて以降、米国で生活をしていた時と同様に、日本語の活字を読む機会がめっきり減っている。これは、日本を離れて生活をしているのであるから、当たり前といえば当たり前である。
そうした最中、現在意識的に取り組んでいるのが、数週間に一度——できれば毎週末にしたいのだが——、日本から持参した和書に目を通すことである。実際には、森有正先生と井筒俊彦先生の全集と、辻邦生先生が書き残した数多くの日記しか、現在の自宅の本棚に並んでいないのだが、彼らが残した日本語の文章を読むという行為が、自分の精神の癒しや支え、さらには精神の肥やしになっていることに言葉にならない有り難さを感じている。
特に、森有正先生と辻邦生先生が書き残した日記には、大いに励まされるものがある。そして、大いに感化されるものがある。他者が書き残した日記というのは、とても不思議な力があるように思えて仕方ない。
二人の日記を読んでいる時にいつも思うのは、なぜ彼らがその出来事を日記に取り上げ、なぜそのような情景描写を用い、なぜその出来事を通してそのような考えや感覚が芽生えたのか、ということが不思議なのだ。
表現を変えると、なぜそのような言葉がそのようなリズムで生成され、なぜ一つのまとまりとしてそのような姿を形作るのかが不思議なのだ。さらには、二人の日記には、彼らの固有性が凝縮されているだけではなく、固有性がある臨界点を超え、普遍性を身にまとっていることに驚嘆させられるのだ。
日記というのは、まさに私的なものであるがゆえに、固有性が色濃く反映されるのは間違い無いだろう。だが、彼らの日記は固有性を超越したものが含まれているように思えて仕方ない。
彼らの日記からいつも励ましを与えられるのは、二人の日記の中に、固有性を超えた普遍的な何かが宿っているからに違い無いのだと思う。一人の人間の言葉が真に力を持つというのは、己の言葉が普遍的な何かを宿した時なのだ、とつくづく思う。
森先生にせよ辻先生にせよ、それらの日記が完全に自分のために執筆されたものであったことを、彼ら自身が語っている。この点は、とても興味深い。というのも、自分のために書き残した文章が、いつか自分とは全く別の人間の人生に大きな影響を与えることが起こり得るからである。
徹頭徹尾、自分のために書き残したはずの二人の日記が、彼らの死後、今の私にこれほどまでに大きな影響を与えているというのは、紛れも無い事実である。これは疑いようもなく、彼らの日記が私的な言葉を超えて、普遍的な言葉に昇華されていることの表れなのではないか、と思うのだ。
「日々を記す」ことの意味や、個的な言葉が普遍的なものに変貌を遂げ得ることの意味について、さらに考えを深めていかなければならない。2016/12/4