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584. 修練との一体化


今日も一日が、一粒の時間感覚の中で一瞬に過ぎ去ったように感じた。読むこと、書くこと、考えること、仕事をすること、音楽を聴くこと、食事をとること、運動をすること、眠ることなどが、別個のものではなく、一つの総体となっているのを強く実感する。

同時に、この総体と自分の存在が限りになく一つになっていることも感じているのだ。全てのものとの一体感の中で、一粒の時間が過ぎ去っていくという感覚の中で、毎日が自分の内側を通り抜けていく。

自分が毎日という時間の中をくぐるのではなく、間違いなく、毎日という時間が私の中をくぐり抜けていくのだ、という感覚がある。 今日も、知性発達科学に関する論文を読む中で、奇妙な体験をした。これは時折自分の身に降りかかるのだが、ある論文や専門書を読んでいる最中に、突如として涙がこみ上げてくることがあるのだ。

この涙を生み出す感覚を言葉にするのは、非常に難しい。これはおそらく、何かに触れた感覚だとも言えかもしれないし、自分が途轍もない大きな何かの一部であるということを把握しているような感覚だと言えるかもしれない。

だが、それらの言葉では、まだ何かを見逃している気がしてならない。振り返ると、こうした感覚は、幼少の頃から時折自分の内側で生じていたものだと思い出した。自分の存在の根元に関わる感覚であるし、自分の活動の根源に関わる感覚である。 これらの感覚に対して、これから少しずつ自分の言葉を慎重に当てていく必要があるだろう。その先に、この感覚が真に自分の感覚として、絶えず自分を支え、自分を導いてくれるように思うのだ。 日々の生活の中で、文章を書き続けることによって、ある時ふと、以前の課題が解決していることに気づくことがある。「自己を対象にした文章を書く」というのは、何か不思議な魔力を持っているように思う。

書くことの力に関しては、未知なるものがあまりに多く、絶えず書くということを通じて、未知なるものを体験的に少しずつ解明していくようなことを無意識的に行っているのかもしれない。人間の発達と同様、自分の言葉を紡ぎ出していくことの中にも、まだ掴めていない真理がそこに潜んでいるのがわかる。

そうした真理の一端すらも掴むことができていないことを考えると、やはり修練の量と質が圧倒的に欠落しているのだと思わされる。明日の朝から再び、一連の流れの中で、修練を継続させていく必要がある。

自分にできる唯一のことは、修練との一体化による継続的な探究ぐらいなのかもしれない。

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