夕方から夕食までの時間、そして夕食後からしばらくの間、ピアジェの構造的発達理論に関する論文に目を通していた。ピアジェの関心事項の一つは、知性発達の領域全般型特性を明らかにすることにあった。
つまり、ある一つの知性領域——論理思考など——が次の段階に到達すれば、新たな段階の能力が、タスクや文脈を変えても発揮される、ということを証明しようとすることにピアジェの関心の一つがあったのだ。
同時に、文化的な差異を超えた普遍的な知性発達モデルを構築することに、ピアジェの関心があったように思う。ピアジェは、発達心理学者というよりも、知識の構築過程を探究する哲学者であったため、それらの関心事項は、ピアジェが最も関心を寄せていたものではないかもしれない。
とりあえず、現代の知性発達科学の研究で明らかになっているのは、一つの知性領域が次の段階に到達したとしても、タスクや文脈が変われば、新たな段階の能力を発揮することは基本的にできないということであり、文化的な差異によって、発達のプロセスは多大な影響を受けるため、万民に当てはまる普遍的な知性発達モデルを構築することは難しい。
ピアジェの論文や専門書を読んでいて、時に混乱させられるのは、現代の知性発達科学の研究成果から言えば、ピアジェの関心事項は誤りを含んでいるものがあるのだが、知性は環境の中における具体的なアクションによって育まれる、というピアジェの主張そのものは、現在でも妥当性のあるものなのだ。
つまり、知性の構築活動は、具体的な文脈の中における特定のタスクに従事する中で起こるという主張と、ピアジェの関心事項は矛盾しているように思えることがあるため、時に困惑させられるのだ。一人の科学者の仕事を真に理解するというのは、実際にはとても難しいことであり、私の誤読も多分にあるであろうから、引き続き、丹念にピアジェが残した論文や専門書に目を通していきたいと思う。 もう一点、ピアジェの発達理論が、過去に頻繁に批判されていたのは、「構造」という言葉についてであった。ピアジェの発達理論の批判者の多くは、構造など存在しない、という主張をする。
ピアジェが提唱した「階段状の発達モデル」は、これまでの実証研究からも、その誤りがすでに明らかになっているが、構造の存在に関しては、今でもその存在が揺らぐことはないと言える。近年の発達研究が明らかにしているように、発達のプロセスには、連続的な発達と非連続的な発達のどちらも含まれているのだ。
構造の存在を否定する者は、非連続的な発達を強調する傾向が強く、実際には、発達プロセスが持つ連続的な性質を蔑ろにしていることが頻繁に見受けられる。非連続的な発達プロセスだけを見ていると、そこには何ら構造らしきものは見えず、変動の激しいプロセスにしか見えない。
しかしながら、マクロな観点で見ると、発達プロセスの中には質的な変容が何度も出現し、それらの質的な差異は、これまでのプロセスの中では見られなかったような発達特性を示すのである。それはまるで、次元の変化のようだ、と形容できるだろう。
知性発達プロセスに見られるこうした次元の変化のことを、ピアジェは「構造」の変化、と捉えていたのである。構造を安易に否定する者は、結局のところ、発達プロセスに内在する質的な差異を見落とすことになるだろう。
ピアジェが提示した「構造」という概念に対しては、その他にも様々な批判の観点があり、同時に、構造を肯定する観点にも多様なものがあるため、それらの議論を踏まえて、自分なりの考えをより深めていきたいと思う。