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581. 内省(リフレクション)に関する誤解


オランダ語の初級コースが終了して以降も、オランダ語の学習を着実に進めることができているのは、とても喜ばしいことである。早朝の習慣の一つに、オランダ語の学習が確実に組み込まれていることを実感する。

語学というのは、継続が何よりも物を言う。外国語の学習は、継続的な鍛錬が確実な成果と結びつく最たる例だと思う。毎朝、数十分という短い時間であるが、それでもその時間は集中してオランダ語の学習を行うことを心がけている。

こうした継続的な実践が、日々の生活の中でオランダ語を活用する際に、少しずつ形となって成果が現れ始めているのを感じる。オランダ語の学習を終え、午前中に取り掛かっておきたい仕事をやり遂げてから、近所のサイクリングロードへランニングに出かけた。

一つの実践から他の実践へ、一つの仕事から他の仕事への流れが、滞ることのない大河の流れのように進行していく様を見ることができる。 午後からは、発達科学の領域に多大な貢献を残したジャン・ピアジェの仕事を参考に、発達現象について少しばかり考えていた。近年、「内省(リフレクション)」という言葉を、各方面で聞くようになった。

この言葉が用いられる文脈には、各人の内面的成長や学びを深めることが目的として存在している。まさに、ピアジェが指摘しているように、私たちの知性が成長していく際に、外部環境との相互作用を通じて、自分の体験を絶えず「内面化(internalization)」していくことが重要なのだ。

簡潔に述べると、私たちは、自分の体験を内面化していくことによって、内面化された体験が一つのまとまりとして組織化され、徐々に大きなシステムを構築していくようになる。そのプロセスを経ながら知性が育まれていく、とピアジェは捉えている。

しかし、多くの人が、「内省」と呼ばれるものを行っても、それほど体験が深まらず、自己の成長に繋がっていないように思えるのはなぜだろうか?おそらく、世間一般で内省と呼ばれているものが、ピアジェが言うところの「内面化」の半分の側面しか捉えていないからではないか、と思っている。

つまり、近年取り上げられている内省には、体験を表面的に振り返ることはあったとしても、その体験に自分独自の新たな言葉を当て、その体験を構造化し、さらに次の体験を生んでいく、という一連のサイクルが欠如しているように思うのだ。

要するに、「内省のための内省」が行なわれているだけであり、知性発達のサイクルが一切機能していないように思えるのだ。発達のプロセスは各人多様であり、体験そのものに対する意味づけも、本来各人多様なものである。

そうしたことからも、非常に重要なことは、自分独自の体験に対して、自分独自の言葉を紡ぎ出すことだと考えている。これは極めて当たり前のことのように響くかもしれない。

しかし実際には、多くの人は自分の言葉を紡ぎ出すことをせず、自分独自の体験に対して、いかに他者の借り物の言葉を与えていることか。あるいは、自分独自の言葉を与えることに対して、いかに意識をしていないことか。そのようなことを思わされる。

こうした状況では、各人固有の潜在能力が開発されていくことはないように思える。なぜなら、上記で指摘したように、私たちは各人固有の体験と発達プロセスを持っており、固有の発達プロセスの中で各々の体験を醸成させていくためには、自分の内側から生まれる言葉という養分を与える必要があるからである。

各人固有の発達を「有機的な現象」と捉えるならば、自分の体験に他者の言葉を当てはめることは、そうした有機的な現象を歪めることにつながり、それは人工的な農薬を散布することに等しいように思える。

発達原理の核の一つに、各人固有の発達特性があることを考慮すると、自分の言葉を見つけようとする試みと、自分の言葉を紡ぎ出していく試みは、自己の成長にとって極めて重要なことだとわかる。こうした当たり前の根幹原理を蔑ろにした実践が、世間の中で蔓延しているように思えて仕方ない。

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