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554. 極上の美


夕方仕事の手を止め、ふと書斎の窓越しから外を眺めてみると、非常に幻想的な夕焼けが広がっていた。うす赤紫色の夕焼けに、思わず息を呑まされた。

私の自宅の真上の空は、まだ青空が広がっているのだが、地平線に近い遠方の空は、見事なうす赤紫色に彩られていた。こうした自然の神秘を目撃するとき、私たちの意識の状態は、否応無しに変容を余儀なくされる。

今、私はその夕焼けを眺めながらこの文書を書いている。時間の経過とともに、太陽光の角度と強度が変化し、その夕焼けはホログラムのように色の濃淡を変幻自在に変えていく。その様子は、とても美しい。

今、この瞬間に、フローニンゲンの街に住む何人の人が、この夕焼けを眺めているのだろうか。フローニンゲンの街に住む数多くの人と、この夕焼けを共有しているのであれば、それに勝る喜びはない。

なぜ自然はこのような美を、この世界に創出することができるのだろうか。このような極上の美は、まさに自然からの恵みであるとすら思う。

自分の頭でひねり出すことのできる論理を超えていくと、このような美を今というこの瞬間に目撃するために、これまでの人生を生きていたかのように思えるのだ。私という一人の人間が、自然が生み出す美に打たれる、というのはとても不思議な現象である。

なぜ人間は、人間ではない自然が創出する美に心を打たれ得るのだろうか。おそらく、最もシンプルな回答は、自然と人間が繋がっているからだろう。

人間の内面世界と自然という外面世界は、必ずどこかで繋がっているに違いない。そのようなことを思わざるをえなかった。

そのようなことに思いを馳せていると、うす赤紫色の夕焼けは、その色をさらに濃くしていった。今この瞬間に私の目の前に広がる美は、人間が創出する美を遥かに凌駕していると思うのだ。

どのような芸術作品よりも、間違いなく美しい。しかしながら、この夕焼けは、どんどんとフローニンゲンの夜の空に飲み込まれていった。こうした一過性の美について考えてみる時、やはり、人間が懸命になって創出した美の価値を改めて知る。

自然の美にせよ人間が生み出す美にせよ、一過性のものもあれば、不変的かつ普遍的なものもあるだろう。人間が生み出す美が、自然の美を越えうるとするなら、それは、自然にはない人間固有の意志の力が作品や行為に宿った時なのではないかと思う。

超人間的な自然の美を超えうる鍵を握るのは、人間固有の意志の力なのではないか、と思わずにいられない。プラトンは、美と真は善からもたらされると主張した。一方、ホワイトヘッドは、美を真と善を上回る最上のものに位置付けている。

今の私の率直な気持ちは、プラトンではなく、ホワイトヘッドに賛同し、今この瞬間に目の前に広がっている極上の美を、真や善を上回る最上のものとしたい、というものであった。

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