「複雑性と人間発達」というコースの初回のクラスから数日が経ち、再びクラスの内容を少しばかり振り返っていた。特に印象に残っているのは、クラスの後半の内容である。
クラスの後半では、実際にコンピューターを活用しながら、ダイナミックシステムアプローチの簡単なモデルを三つほど自分たちでエクセル上に作成し、それに対してシミレーションを実行し、システムの挙動を観察するというものである。
受講生の人数とコンピューターの台数の都合上、私は博士課程に所属する友人のヤニックと一台のコンピューターを共有することにした。ヤニックは、昨年提出した修士論文の中で、ダイナミックネットワークモデルというダイナミックシステムアプローチの応用手法を活用していたこともあり、今回のエクササイズの内容に精通しているように思えた。
ヤニックとともに、あれこれ意見交換しながらモデルを組み立て、それに対してシミレーションを実行することは、純粋に知的好奇心を大いに刺激してくれるものであった。私の右隣に座っていたエスターは、天体物理学を専攻していたためか、数式に対するこだわりがやたらと強い。
エスターは、テキストに記載の数式に関して、少し疑問があったようであり、ヤニックや私にその疑問について質問をしてきた。天体物理学を専攻していた彼女以上に数学力が自分にあるわけではなく、私がその質問に回答することは不可能であったし、ヤニックにとっても難解な問いであったようだ。
その後、エスターは、コースを担当するクネン先生にもその質問を個別にぶつけていたが、数式へのこだわりには頭が下がる一方で、その様子は幾分滑稽でもあった。しかしながら、ヤニックと私も、ダイナミックシステムアプローチの古典的な三つのモデルを組み立て、パラメーターをいじりながら、子供のような眼を持って、システムの挙動が変化する姿に釘付けであったため、エスターからしてみれば、ヤニックと私の姿も幾分滑稽に映っていたかもしれない。 ダイナミックシステムアプローチで活用する数式モデルは、様々なものがあるが、共通する特徴として、変化のプロセスを説明する理論モデルを映し出すことが挙げられる。つまり、ダイナミックシステムアプローチで組み立てる数式モデルは、研究対象とする現象の変化のメカニズムを説明した理論モデルによって組み立てられているのだ。
ここからわかるように、ダイナミックシステムアプローチを活用するためには、何はともあれ、自分の頭で理論モデルを組み立てていく必要があるのだ。その時、よく受ける質問としては、人間の知性や能力という、多様な要素に影響を受けた現象に対して、どのように理論モデルを組み立てるのか?というものである。
この質問の裏には、科学的研究で用いるモデルに関する誤解があるように思う。科学的なモデルを組み立てるときに重要なのは、その現象に影響を与えるであろう全ての変数を織り込むことではなく、その現象の変化に不可欠な本質的要因を抽出し、それらの要因を用いて説明モデルを組み立てていくことにある。
例えば、フックの法則「F=-kx」は、物体の伸び縮みの変化量と復元力の関係性を説明したものであるが、その他の変数をこの方程式に盛り込むことがないのは、数式に織り込まれている変数が物体の伸び縮みと復元力の関係の本質をすでに見事に説明しているからである。
これは、人間の知性や能力を研究対象とする際も同じである。知性や能力に関してどのような変化を研究したいのかを明らかにし、その変化に重要な影響を与える変数を特定し、それらの変数を用いて、変化の本質を捉える説明モデルを作ることが重要なのだ。
要するに、そこでは些細な変数を雑多に盛り込むことはないのである。元来、「説明的正確性(descriptive adequacy)」という言葉は、チョムスキー派の言語学から生まれたものであるが、モデルの説明的正確性というのは、雑多な変数が盛り込まれているかどうかにあるのではなく、現象の本質を掴んでいるかどうかにあるのだ。
上記の点は、知性や能力の発達現象にダイナミックシステムアプローチを適用する際に、頻繁に受ける質問であるため、簡単にその要旨を書き留めておくことにした。