今日も昨日と引き続い、冴えない天候である。外の気温は極めて低くなり、日照時間も少なくなり、冴えない天候が続くというのは、北ヨーロッパに特有の冬の姿なのかもしれない。
今日は特に午後から、激しい風が吹き始めた。激しいが風が、自宅に面したストリートの街路樹を大きく揺さぶっているのが、書斎の窓から見えた。激しい風に揺さぶられながらも、弾力性に富む動きを見せる木々の枝たちを観察していた。
どんなに激しい風にあっても、しなやかに動きを変え、再び元の姿に戻る木々を見て、たくましさを感じた。そのようなことに思いを馳せながら、今日の午前中に開催したオンラインゼミナールについて回想していた。
今日のクラスの後半では、私たちの知性や能力の成長・発達を考える際に、非常に重要な役割を持つ「変動性」という概念を取り上げていた。私たちの知性や能力は、環境やタスクに応じてリアルタイムに変動する、という本質的な特徴を持つ。
また、環境やタスク自体にも変動性があるため、この世界はつくづく変動性で満ちた波のようなものだ、と思わされる。クラスの内容をあえてここで細かく取り上げることは控えるが、私たちの知性や能力は変動性に満ちており、その変動性が極度に軽減されてしまうと、成長のプロセスが滞ってしまうのである。
言い換えると、私たちの成長や発達という現象は、絶えず変化することを通して成し遂げられるものであるため、変化が滞ってしまうことは、成長や発達を滞らせることにつながってしまうのだ。
記憶が定かではないが、生物界には、動くことをやめてしまうと死んでしまう生物がいるようである。原理的には、人間の成長や発達も同じだと思う。私たちの成長や発達は、動くことを抑圧されてしまう時、それは硬直化という死をもたらすことになるのではないか、と思うのだ。
書斎から見える木々が、相変わらず激しい風に揺れ動かされている。その揺れはとどまることを知らない。木々の揺れから、風の音を推測してみる。
激しい風の音であるにもかかわらず、それは私にとって、不快なものでは決してなく、逆になぜだか心地の良いものとして聞こえてくるかのようであった。自然界の風の音は、実に不思議なリズムを持っている。
そして、この不思議なリズムが、私という人間に一種の心地よさを生み出していることも実に不思議である。オランダという国で、私は、自分がいかに見えないところで大きな揺さぶりを受けているのかを知る。
私は目の前の木々のように、激しい風の存在を知らず、ただそれに揺さぶられているかのようである。今の自分が、何に揺さぶられているのかは、本当に未知である。おそらく、何が自分を揺さぶっていたのかを知るのは、その揺さぶりを通過した後になってからであろう。
私が目の前の木々に共感の念を持ったのは、激しい風に揺らされる木々と自分を重ねていたからなのかもしれない。風に揺さぶられる木々の動きと、自分の内側の動きとが呼応しているかのようである。
お互いの変動性が共鳴をし合っていたが故に、木々の躍動する揺れに私は惹きつけられていたのだろう。そして、木々を揺さぶる風の音を心地よく思ったのは、存在を揺さぶる風こそが、私の内面の成熟に不可欠である、とわかっていたからなのかもしれない。
激しい風のさなかにあっても、折れることなく、生き続けることのできるしなやかさとたくましさを望む。そして、激しい風そのものを私は望む。2016/11/19