どんよりとした雲が空を立ち込め、小雨が降る形で、今日という一日が始まった。昼食後、少し仕事をした後に仮眠をとって目覚めてみると、雲の間から太陽が顔を覗かせていた。
太陽を取り囲む雲も、黒い雨雲から白い雲へと変化を遂げていた。先週から、フローニンゲンの街の最低気温はマイナスに突入することが多くあったが、昨日あたりから来週にかけては、少し暖かい日が続くようである。
それはまるで、冬の中休みである。書斎の窓を開けてみると、冬の冷たい風が、爽やかな息吹として部屋の中へ流れ込んできた。雲間から降り注ぐ太陽光とそよ風を浴びながら、改めて、今この場所にこのようにしていられることを有り難く思った。
以前訪れたデン・ハーグでの体験を先日紹介していたように思う。その中で、「デン・ハーグからの出発」ということがテーマに上がっていたように思う。私たちの人生が本質的に持つ、連続的な出発現象に関する話である。
思い返すと、以前にも、「出発」ということをテーマにして、何か文章を書いていたように思う。その際には、往々にして、出発を促すきっかけになる出来事があった。例えば、先日の例で言えば、デン・ハーグという未知なる街を訪れることなどである。
しかしながら、先ほど寝室での仮眠を終え、書斎に戻ってきた時、そこでも出発という現象が起こっていることに気づいたのだ。つまり、何か特定の現象をきっかけにすることなく、私の内側で絶えず出発という現象が起こっていることに気づいたのだ。
ミクロな発達現象よりも遥かに微小な変化を捉えられるようになっている自分がいるのかもしれない。刹那の中に生じる出発は、私たちが体験する発達現象の最小単位のものなのかもしれない。絶えず出発をしながら出発地点に回帰していくという運動は、驚くべき現象ではないだろうか。
概して、私たちは常に新たなる出発をしていることを見落としてしまいがちである。私たちの内側で流れる発達の最小単位に気づくとき、常に私たちが新たな出発を体験しているということがわかるのではないだろうか。
先ほどから自分の身体に当たっている太陽光は、とても暖かい。冬の太陽光は不思議な力を持っているとつくづく思う。書斎からの景色を眺めながら、暖かな太陽光を感じていると、違う世界に誘われてしまうかのようである。
仕事に戻り、メールを確認すると、論文アドバイザーのクネン先生から連絡があった。なにやら、十二月と一月の研究報告会のどちらの日程でプレゼンするか、という連絡であった。クネン先生からは、論文提案書と研究が順調に進んでいるため、十二月の報告会でプレゼンしてみてはどうか、と提案があった。
最初からそのつもりであったため、私は十二月の報告会でプレゼンさせてもらえるように返信を送った。フローニンゲン大学に到着する三年間の間、研究者としてのトレーニングを正規の大学機関で受けることができなかった私は、研究者としてのトレーニングを受けるためのトレーニングを自らに課していた。
それはとても地道な鍛錬であったし、長きにわたるものであった。時に、先の見えない迷路に迷い込んでいるような感覚すらあったのを覚えている。しかし、私にできる唯一のことは、鍛錬の継続であった。
今このようにして、自分の研究や仕事に没頭できていることに対して、何よりも嬉しく思う。研究に取り組めるということそのものはもちろん、研究の中で紆余曲折を経験できることそのものが、とても有り難いものとして感じられるのだ。
先週末、森有正先生の全集に収められた『城門のかたわらにて』に目を通していた。現在、日本語に触れたくなった時は、森先生の全集をゆっくりと読むようにしている。
その中で、森先生は、自身の初期の作品である『ドストエフスキー覚書』について触れていた。20年前に自分が出版した書籍を読み返した時、全身から冷や汗が出るほど恥ずかしい思いになったのと同時に、自分の進歩を確かに感じた、という趣旨の発言があったのを覚えている。
この発言を受けて、三ヶ月前に自分が書き残した文章を先日読み返した時の感覚が蘇ってきた。自分の未熟さを感じさせられるのと同時に、醜態を晒している感覚になったのだ。しかし、私は醜態を晒しながらでも前へ進んで行くことしかできないのだ、ということに気づかされた。
そして、何より私を感化してきた過去の偉人たちは皆、未熟さを表に出しながらも前に進んで行くような気概を持った人間であった。泥水を飲みながらほふく前進すること以外に、前へ進む道が私に残されていないのだ、と改めて知る。 光に向かってのほふく前進を今日も。明日も。明後日も。2016/11/16