今日は、仕事の間中ずっとジョージ・ウィンストンのピアノ曲を流していた。69曲のピアノ曲の合計時間は4時間15分ほどであるため、全ての曲を少なくとも二回聴いていたことになる。
夜の八時を回ると、ジョージ・ウィンストンが編曲をした「カノン」を延々と繰り返し聴いていた。ある時から仕事の手を止め、ウィンストンのカノンにただただ耳を傾けていた。
一つの曲を繰り返し聴けば聴くほど、真剣に向き合えば向き合うほど、新たな体験が自分の中で生じることに気づく。これは、一つの言葉や概念、そして理論といった類のものと真剣に向き合う際に生じる現象と全く同じである。
一つの対象と真剣に向き合うたびに、自分の中で何かが確実に変化するのだ。音楽や言葉の外観は変化をしていないはずである。一つの固定的な対象物から新たな意味や体験を見出すということが起こるのは、まさに私たちの内側に変化があるからに他ならないだろう。
今の私は、顕在意識下のみならず、潜在意識下においても絶えず生じている変化を取りこぼすことがない。絶え間ない変化は、一人の人間存在が内在的に宿している不可避の特性である。
変化の粒子は、四六時中、私たちの内側を流れていることに気づかないだろうか。私たちの内側に、無数の変化の粒子が流れていることだけではなく、私たちの存在自身が、それらの粒子を運ぶ流れだとわかったら、それは驚くべきことではないだろうか。
同時に、それら一つ一つの流れが各人固有のものであるとわかった時、それらの流れをせき止めようとする外界の悪意ある力に対して、憤りを感じざるをえないのではないだろうか。私が日々の生活の中で感じている憤りは、まさにそれである。
今日も午後から、少しばかり論文と専門書に目を通していた。「私たちは、自分の中にすでにあるものしか書物から読み取ることができない」というマルセル・プルーストの言葉通り、今日の読書から汲み取ることができた意味は、まさに今の自分の中にすでにあるものだったのだろう。
プルーストの言葉は、書物から汲み取れるのは、現在の自分の中にあるものでしかないため、書物を読むことは無意味である、ということを意味していない。今日の読書から汲み取ったのは、おそらく、自分の内側にある変化の粒子である。
変化の粒子の興味深い特性は、それが認識の光に当てられた時に初めて、一つの変化として自分の内側で開くのである。つまり、書物を読むことは、自分の内側の変化の粒子を掴むことであり、それによって変化の流れ自体を新たなものにしていくことである。
こうすることによって初めて、内側から変化の促しが私たちにもたらされるのだ。その結果として、私たちは新たな流れを持つ自己となるのだと思う。
絶えず変化の粒子を掴み、絶えず変化の流れとしての私を認識しながら、毎日を新たに出発していくこと以外に、自分の生き方はない。せき止められない流れこそ、人間の生の本当の姿なのではないだろうか。