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530. 燃焼過程を通じた成熟


「もうそんなことは止めたほうがいいのではないか」という声が聞こえてきた。午前中の仕事を終え、身体トレーニングの後に昼食を済ませ、一時間ばかり仕事をさらに行ってから、いつものように20分間ほど昼寝をしていた。

昼寝というよりも、実際には、ヨガのシャバーサナのポーズを20分間ベットの上で行うという瞑想実践なのだが、時折この実践は、啓示的な伝言を私に伝えてくれる。少しばかり昔——数週間前——のことになるが、当時の私は、読書という行為についてあれこれと考えを巡らせていた。

今日、瞑想的な意識状態の中で、イマニュエル・カント本人から、「もうそんなことは止めたほうがいいのではないか」という言葉をかけられた。この言葉が示唆しているのは、カントを代表とした哲学者の思想を頭に入れようとすることに対する警告だろう。

哲学者の思想内容を追いかけ、単にそれを記憶するために行う読書というのは、非常に不毛なものだと思う。不毛であるばかりか、それは自らの思想を紡ぎ出す際の障害にすらなりうると思っている。当然ながら、偉大な哲学者の思想に触れることは重要である。

その時に注意が必要なのは、決して他者の思想を安易に移植することではなく、他者の思想を通じて、自らの思想を育んでいくことである。他者の思想を移植することに懸命な人の言葉は、常に浅薄である。

その言葉の裏に、その人固有の顔が見えることはなく、移植対象となった思想家の顔が歪んで見えるのだ。懸命に他者の思想を移植することに躍起になった結果、自らの顔を喪失するというのは、とても恐ろしいことではないだろうか。

少なくとも私は、自分固有の顔を隠す形で、他者の歪んだ顔をまといながら生活することに耐えることはできない。とりわけ思想に関して、移植行為は不毛なものであり、成功することはないと思うのだ。なぜなら、思想というものは本質的に、一人の個の体験と経験を通じて生み出される唯一無二のものだからである。

また、思想移植に励むことは、自分固有の生の価値を貶めることにもつながると思うのだ。思想移植を行うためには、自分独自の生を脇に置き、他者の生を生きなければならないからである。おそらく、カントが伝えようとしていたのは、そのようなことなのだろう。

これは何も、哲学書を読むという行為だけに当てはまることではなく、研究論文を読む際にも当てはまることだと思う。読書の最中、自分の内側を通して書物や論文と向き合っているのかどうか、という度合いがかなり掴めるようになってきている。

そして、そうした度合いが測定できるようになってくると、驚くのは、多くの読書行為が自分の内側を適切に通過していない、ということである。自分の内側を通過していない読書は、自己の内側で何も生み出さないばかりか、移植行為による自己展開の機能不全や成長抑圧を生じさせる。

自分の内側を通過していない読書体験は、本来言葉が持っている自発的に意味を広げる力、すなわち自己展開力を骨抜きにしてしまうのだ。そのような読書体験を重ねれば重ねるだけ、成長を抑圧する脂肪が蓄積するのだ。

脂肪にまみれた状態に気づくことがまず大事であり、そこから自分の内側で自己展開する力の機能を回復させる試みが重要になるだろう。このようなことを考えると、自己展開力を促すことが、読書の最大の意味なのではないかとすら思う。

書物に書かれた内容や思想を溜め込むというような脂肪を蓄積することは、決して読書の本来の目的ではないだろう。読書の本来の目的は、全く逆であり、兎にも角にも燃焼だと思うのだ。そのような燃焼過程の中で、私たちの体験や経験が熟成していくのである。

その結果として待っているのが、内面の成熟というものだろう。日常の何気ない現象から燃焼を引き起こし、自分の考えを展開させているように、哲学者の思想から燃焼を引き起こし、自分の考えを展開させていく必要があるだろう。

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