今朝、目を覚ましてみると、昨日と同様に、書斎から見える大通りに霜が積もっていることに気づいた。外は完全に冬景色である。そうした外の寒さとは対照的に、自宅の中は非常に暖かい。
こうした外と内とのコントラストは、ニューヨークに在住していた時と状況が似ている。しかしながら、両者ではっきりと異なるのは、それを体験している自己そのものだろう。
ニューヨークに住んでいた頃の三年前の私は、冬という季節に飲み込まれる形で、日々の生活を形作っていたように思うのだ。つまり、その時には、冬という季節の中で着実に育まれていく内面的成熟に気づくこともなく、冬という季節を何気なくやり過ごそうという気持ちすらあったように思える。
結局、そのような生活の中では、内面的成熟の芽が誕生していたのかもしれないが、それらは認識という光と養分を得ることができなかったために、餓死してしまったのだと思う。内面的成熟を促す機会を無数に喪失してきたという経験から、わずかばかり自分の中で進歩が見えるのは喜ばしいことである。
フローニンゲンの街で生活を始めることによって、冬という季節を超越した冬があるということに気づくことができたし、そうした超越的な冬の中にある自己と対話をすることでしか、私はその次に開かれる自己に到達しえないのだということを知った。
冬が深まるある日の夜に、自宅の電気を消灯し、ロウソクに火を灯したことはあるだろうか。私の自己は、小さな光を放ちながら静かに揺らめくロウソクの灯火のようである。いや、それよりもむしろ、デン・ハーグの国際司法裁判所で見た、決して消えることのない「平和の火」のようである。絶えず静かに揺らめくこと、絶えず静かに燃え続けることが何より重要なのだと思う。
今日は午前中に、研究プロジェクトを前に進めていた。フローニンゲンからデン・ハーグに向かう列車の中で閃いたアイデアをもとに、研究データを眺めていた。そのアイデアがうまくいく箇所と、やはりまだうまくいかない箇所がある。
あるアイデアが生まれることによって、既存の問題が解決し、同時に新たな問題が生まれるというのは、どれほど不思議な現象だろうか。そして、そうした新たな問題が、私たちをさらに前進するように促してくることも驚くべきことだと思う。
まさに、発達心理学者のロバート・キーガンが述べているように、私たちが問題を解決するのではなく、問題が私たちを解決するのだということを思い知らされる。言い換えるならば、私たちは問題を解決することによって成長するのではなく、問題が私たちを解決することによって、私たちは成長していくのだろう。
午前中の仕事を終えた後は、外の寒さとは関係なく、習慣にしているランニングを行いにノーダープラントソン公園へ出かけた。ランニングの途中、突如として、冷たいみぞれが降ってきた。日常の何気ない現象は、実は全て超常現象なのではないかと最近よく思う。
みぞれが落ちてくることに気づいた私は、デン・ハーグからフローニンゲンへ戻る列車の中で見舞われた、ある種の放心状態に陥っていた。そうした放心状態の中で、自分は果たして存在しているのか、そして実在しているのか、という根源的な問いにぶつかっていたのだ。
こうした形而上学的な問いは、決まって日常の何気ない現象から生み出されるのだ。そうしたことを考えると、日常の何気ない現象は、超越的な問いを常に内包しているがゆえに、全て超常現象なのではないかと思うのだ。
オランダで生活を始めて以降、日常の何気ない現象は、どれも皮が剥けた状態で私と対面し、超越的な問いを露わにした裸体で自分に迫ってくるのがわかる。現象の原初の姿と真摯に向き合う時、自己の原初の姿を発見することに近づけるのかもしれない。
耐えながら、揺らめきながら、絶えず静かに歩み続けることによってしか、それを成し遂げることはできないだろう。2016/11/14