本日の午前中に、『卓越性研究の最前線』という新オンラインゼミナールの最初のクラスを開催した。初回のクラスの終了後、受講生の皆さんと同様に、自分でもあれこれと今日のクラス内容について振り返りを行っていた。
私たちが「才能」という種を「卓越性」という果実に育んでいくためには、一般的に、多様な要素の相互作用と長大な時間を必要とする。己の才能がどのようなところにあるのかに気づくことも難しければ、それに気づいた後に、自分の才能を開花させるための実践に継続的に取り組んでいくことや、そうした才能を真に開いてくれる環境に飛び込んでいくことも非常に難しい。
現代社会においては、評価しようのない才能の書類が無数に存在しており、それらの才能はあってないものとみなされてしまっている。発達心理学者のカート・フィッシャーが指摘しているように、人間の発達プロセスが多様であるのと同様に、才能というのも人の数だけ本来は存在するはずである。
しかしながら、社会として才能を評価・支援する仕組みや文化がなければ、一人一人に固有の才能は果実になることなく、その芽を早い段階で摘み取られてしまうことになる。結果として、私たちの多くは、自分が本来発揮するべき才能とは別種のものに対して、生命時間を費やさざるをえない状況にいるのではないか。
才能や卓越性に関するテーマは、どのような社会を形作っていくべきなのか、という非常に大きな論点を内に含んでいるように思う。フローニンゲン大学で「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースを受講していた時、才能や卓越性に関する実証結果や研究の進め方については、かなりの知識を得ることができたと思う。
しかしながら、このコースに欠けていた視点は、個人の才能や卓越性と社会的な思想や仕組みとの関係性についてであった。才能や卓越性を評価・支援する仕組みや文化の創造に向けて、私たちはどのような社会を実現していくべきなのか、という哲学的な観点が必須であるように思う。そうした議論に加わっていくために、哲学的な素養を少しずつ身につけていくことは、今の私の一つの課題である。
これまでのオンラインゼミナールを通じて、クラスの内容そのものだけではなく、成人のオンライン学習をどのように進めていけば、より有意義なものにできるのかを常に模索している自分がいる。居住地域の都合上、過去五年間にわたって、不定期的にオンラインゼミナールを開講してきたという経緯がある。
こうした経験の中で、成人がオンライン空間で最大限の学びを得るには、どのような仕組みと工夫が必要なのかを毎回あれこれ考えさせられる。「オンライン空間で学びを提供する」というのも、卓越性を発揮する一つの領域であるとみなすと、この領域における自らの卓越性は大いに開拓の余地がある。
これまで独学で、学習理論や教育心理学を少しずつ学んできたが、専門書を開くたびに、非常に参考になる概念や理論が多数存在していることに気づく。フローニンゲン大学での二年目に、「実証的教育学」プログラムを選択する理由はまさに、独学ではなく、体系的に成人学習に関する理論を集中的に学びたいと思ったことにある。
理論を通じた実践と、それを実証的に評価するという試みを通じて、「オンラインの成人学習」の可能性を開拓していきたいと思うのだ。これは、私の探究テーマの中では最も社会と関係性の深い試みだと思う。
書斎の窓から夕暮れの空を見上げると、そこには、秋の木の葉のような色をした雲が静かに浮かんでいた。今日という一日が、終わりに近づいていることを知る。今日という一日を終えることによって、自分が卓越の境地に一歩近づいたのかを内省させられる。2016/11/5