top of page

505. 知識体系と外国語


フローニンゲンの街は、すっかり冬らしくなった。夕方、書斎の窓から景色を眺めると、ほのかな光を放っている夕日が目に飛び込んできた。極めて淡いオレンジ色の光を放っている夕日を眺めていると、社会学者のタルコット・パーソンズが知識をスポットライトに見立てた比喩を提示していたことを思い出した。

ここ最近、自分の意味世界の中に、どのような知識体系をどのように構築していくかについて、考えることを迫られる機会が多くある。当然ながら、知識があることによって照らし出される固有の現象が存在する一方、知識があることによって影となってしまう現象が存在するのは確かである。

そうした二面性を持つ知識ではあるが、私は知識体系を構築していくことについては、肯定的な見方を持っている。具体的には、知識体系を構築していけばいくほど、光の解像度と被写体を捉える幅が向上するイメージを私は持っている。

人間の成長や発達に関する知識を獲得し、それらを一つの統一体としていくことを通じて、知識獲得以前では到底捉えることのできなかった現象を認識することができているのは、まぎれもない事実だと思うのだ。

そうした知識の統一体をより堅牢なものにしていく試みを続けていくことによって、やはり、人間の成長や発達に関する現象理解の幅と深度が変化しているように思う。確かに、個別の知識は盲点を不可避に内包してるが、それら一つ一つの個別の知識を知識体系という大きな統一体に変容させていくことによって、個別知識の盲点が解消されていくような気がしている。

ただし、これは少し楽観的な見方であり、実際には、知識体系にも固有の盲点があるため、複数の知識体系を組み合わせていく試みや、既存の知識体系をさらに高度なものにしていく試みに耐えず従事していく必要があるだろう。

前の学期に履修していた「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースを通じて、心理統計に関する知識が圧倒的に欠落していることを実感させられた。その時には、心理統計の知識が不足しているがゆえに、説明することのできない現象が多々あることに気づかされたのだ。

こうした課題意識もあり、一年目の最後の学期に心理統計に特化したコースを履修する予定であるが、知識体系とはまるで一つの言語体系のようだとつくづく思う。見知らぬ知識体系で構築された専門書や論文を読むことが難しいのは、その知識体系がある意味、自分にとっての見知らぬ外国語のような存在だからなのではないだろうか。

興味深いのは、私たちは、そうした外国語のような知識体系を習得することに励めば励むだけ、その知識体系を通じて構築された言語を少しずつ理解できるようになってくるのである。母国語にせよ外国語にせよ、自分が操る自然言語を練磨させることを継続すると、その言語が固有に作り出す意味世界から新たな意味を汲み取ることが可能になり、さらには新たな意味の構築を可能にするのだ。

毎日毎日、日本語・英語・オランダ語という三つの自然言語のみならず、複数の知識体系の言語を磨いていく訓練を怠りたくはないと思う。今週末から来年の初旬にかけて、ダイナミックシステム理論を含めた複雑性科学の知識体系と、システム理論や社会システム理論などのシステム科学の知識体系を構築することに集中的に取り組むつもりである。

人間の知性や能力の発達に対して、発達科学の観点からだけではなく、複雑性科学とシステム科学の観点から探究を深めていくことこそが、オランダに来た真の目的であったことを再度確認する。2016/11/3

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page