今日は午前中の仕事を終え、気分を変えるためにランニングに出かけた。今日のランニングでは、いつものノーダープラントソン公園ではなく、来週の最終試験の会場を下見に行こうと思い、試験会場のあるキャンパスまで走って行った。
自宅から北に15分ほど走ると、試験会場であるザーニクキャンパスに到着した。到着してみると、広大な敷地の中にあまりにモダンな建物がいくつもそびえ立っており、私が普段通っている社会科学系のメインキャンパスとはまるっきり様相が違うことに気づいた。
フローニンゲン大学のザーニクキャンパスには、コンピューター上で試験を受けるための専用の建物があることには驚いた。デザインが奇抜な建物が多い中、試験専用の建物を無事に見つけることができた。
また、ザーニクキャンパスには、スポーツ専用の建物があり、さらには広大な敷地内にサッカーコートやテニスコートが複数面ある。試験会場を確認した後、スポーツ専用の建物内でフットサルや水泳をしている人たちを見ると、自分も再びそれらの競技を再開させたいという思いがふつふつと湧き上がってきた。
さらには、試験場を後にし、帰りのランニングの最中に視界に入ったサッカーコートをついつい立ち止まって眺めてしまう自分がいた。水泳は結局のところ一人称的な実践であるため、フットサルやサッカーなどの二人称的な実践を再開してもいいのかもしれないと思った。
ランニングからの帰宅後、前回の流れに引き続き、知性や能力を発揮する主体である私たちとそれを取り巻く環境について考えさせられている。以前紹介した、元カリフォルニア大学バークレー校教授エゴン・ブランスウィック(1903-1955)が提唱した「心理学的生態学(psychological ecology)」に関する論文をまた読み返すことにした。
そこから得られる示唆は、知性や能力を涵養するトレーニングを設計する際に、トレーニングの内容そのものを実際の現場の実践内容に近づけていくことの重要性である。つまり、トレーニング環境と実際の現場環境とを切り離すのではなく、トレーニングのためのトレーニングに陥ることを避け、実際の現場での実践のためのトレーニングを積んでいくことが重要なのだ。
この指摘は、前回の記事で行ったものとほとんど同じだと思う。そこでもう少し考えを深めてみると、標準化した実践と実際の実践現場を反映した二つのタイプのトレーニングを併用させることが大切になるのではないかと思った。
標準化したトレーニングとは、確かに実際の現場を忠実に再現したものではないのだが、実際の現場で活用する能力の根幹部分となる要素を抜き出し、その要素を強化することに特化したトレーニングである。例えば、サッカーにおいては、よくコーンドリブルという練習が用いられる。
これは、いつかのコーンを並べ、そのコーンを敵と見立てて、コーンにぶつからないようにドリブルを行う訓練である。このトレーニングでは、実際の敵をコーンと見立てているところに、実践現場を忠実に再現していないことが見て取れるだろう。
しかしながら、サッカーを行うという能力の根幹部分にあるドリブルという要素を抜き出し、ドリブルの基本を身につける上では、このコーンドリブルは非常に有益だと思う。ただし、これは私の経験談だが、このコーンドリブルに従事している最中は、ついついコーンを敵と見立てることなく、静止した物体とみなしがちであり、このトレーニングが単調な反復練習に陥ってしまうことがよくある。
単なる反復練習になるのを防ぐため、前回の記事で取り上げた「変動性」を盛り込んでいくことが重要になるだろう。例えば、「コーンを敵と見立て、コーンから足が出てくることをイメージする」というニュアンスの言葉を、練習の合間合間に指導者が度々口にすることは、実践者の意識を変えることにつながり、変動性が保たれることになるだろう。
確かに、実際の現場(試合)を想定した練習を常に行うことは理想だが、絶えず人間を相手にドリブル練習を行うというのは非効率的なことが多いのも事実だろう。ゆえに、実際の現場を想定した変動性に富んだトレーニングと、特定の能力の基礎を確立するための標準化されたトレーニングを併用することが大切になるだろう。
そして、この二つのアプローチはトレーニング設計だけではなく、アセスメントにも当てはまるだろう。心理統計の世界では、「標準化テスト(standardized test)」という言葉は必ず耳にするものである。
標準化テストとは、測定したいものが的確に測定できるのかを担保するため、事前に複数回にわたる実験を行い、得られたデータから最適な設問だけを抽出して作られたテストのことを指す。例えば、欧米の大学に留学するときに受験する必要のあるTOEFLやIELTSなどは代表的なものだろう。
TOEFLを例にとると、標準化されたテストであるがゆえに、留学生活で必要とされる能力に関する妥当性と信頼性は高いように思える。私の感覚だと、TOEFLの試験で120点中100点を下回る場合は、クラスの中で行われる学術的な議論にほとんどついていくことができないのではないかと思われる。
その意味で、TOEFLは欧米の大学で学術生活を送る際に要求される英語力を測定する優れた試験だと思う。実際にこれまでの数年間、私は毎年少なくとも一回はTOEFLを受験し、自分の英語力を確認するようなことを行っていた。
だが、TOEFLという試験が標準化されているがゆえに、限界があるのも事実である。特に、欧米での学術生活が長くなってくると、もはや一般的な学術英語ではなく、極めて個別性の高い学術英語を駆使して生活をするようになるため、そうした環境下で培われた特殊な学術英語力をTOEFLは測定できない、という限界を持っているのも事実だろう。
スピーキング一つとってみても、往々にしてTOEFLは、自分の専門性とは全く関係のないたわいのない設問を投げかけてくるため、そこで発揮されるスピーキング能力と専門分野で発揮されるスピーキング能力は、随分と異なることを実感している。
そうしたことから、自分の専門領域内での英語力を測定するために、アドバイザーとの実際のやりとりなどを通じて、自分がいかにその領域内の知識を話し言葉や書き言葉にうまく変換できているのかを評価するような試みをしている。標準化したアセスメントと現実の個別具体的なタスクに紐付いたアセスメントに関しては、また改めて考えていく必要があるように思う。