目の前にそびえ立つ壁が途轍もなく高い。ポール・ヴァン・ギアートの “Annals of theoretical psychology vol. 7. (1991)”を読みながら、ただただそのようなことしか思わなかった。
この二ヶ月間において、一日たりとも休息を取らなかったことが影響しているのか、先日の感情状態から抜け出せていない。やはりまだ心身ともに理想な状態にあるとは言えないのかもしれない。
二ヶ月間休むことなしに働いていたことに、今日の夕食後にふと気づいたのだ。自分の心身が最善の状態にないことを差し引いたとしても、ポール・ヴァン・ギアートが発達科学の領域に残した数々の仕事にはただただ圧倒されるばかりである。
彼の仕事の質と量は、分野は違えど、モーツァルトやピカソのそれと匹敵するのではないかと思わされる。彼の仕事を辿れば辿るほど、どのようにすればこのような質と量が担保された仕事を長きにわたって行うことができるのか、謎が深まるばかりである。
自分が発達科学の世界に貢献する日などやってくるのか非常に危ぶまれる。また、ヴァン・ギアートの仕事は、私が研究者としてのスタート地点にすら辿り着いていないということを大いに突きつけてくれるのだ。
それほどまでに、ヴァン・ギアートが残した業績は偉大であり、同時にそれが生み出した壁は、私の目の前に途轍もなく高くそびえ立っている。休息を一切取らずに歩み続け、少しばかり疲弊していることがわかったこの時期に、このような形で完膚なきまでに打ちのめされる経験ができたことは、もしかすると貴重なことなのかもしれない。
ヴァン・ギアートの論文が掲載されたページから目をそらし、天井を仰ぎみた。ヴァン・ギアートが残した業績は、天井を突き抜けて、天空の彼方先にまで延びているような感覚に包まれた。その業績の偉大さに対して、思わず笑いが込み上げてきた。
確かに、同じ発達科学の世界の中で、元ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーの残した業績も実に優れたものがある。フィッシャーもヴァン・ギアートと同様に、圧倒的な質と量の論文を執筆しており、発達科学の世界に多大な貢献を果たしている。
だが、今回ヴァン・ギアートの仕事に対して感じたものと、フィッシャーの仕事に対して感じたものとの間には、随分と違いがあるように思える。つまり、二人の巨頭の仕事に対して、私は別種の衝撃を受けていたのだ。
簡単に分類すると、フィッシャーのそれは私を激励するようなものであったのに対し、ヴァン・ギアートのそれは私を叩き潰すようなものであった。今回の衝撃から、一つ大きな発見をした。
それは、一つの領域を突き詰めて探究する際に、人生を賭けることと人生を棒に振ることの境目は、実に微妙であるということだ。私には戻るべき場所など最初から無く、退路を断たれた状態で歩みを開始したため、私にできる唯一のことは、ただただ歩き続けることなのだろう。
この瞬間の偽ることのできない正直な気持ちは、ゆっくりと歩くことすらままならない、というものかもしれない。歩くことすらできない状況の中で、もがき耐え忍びながらでも前へ進もうとするのは人間の性なのだろうか。2016/10/22
今日から最低気温がマイナスに突入した。明日は雪が降るかもしれない、と天気予報が告げている。2016/11/8