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468. 真の課題から目を背けさせる社会


夕方から一時間ほど、激しい雨がフローニンゲンの街を襲った。窓からしばらく通りを眺めていると、激しい雨の中を勇敢に自転車をこぐ人たちの姿が何度も目に入った。カッパを着ることも傘をさすこともなく、雨に濡れながら自転車をこぐというのは、こちらの文化的慣習のようである。

斜めに降り注ぐ激しい雨に対峙する形で人々が自転車をこいでいるのを見て、真の課題から目を背けさせる社会の存在について考えが及んだ。今目の前で降り注いでいる雨は、自転車をこぐ人たちに対して、ある種の課題を突きつけているように思えたのだ。

一方で私たちの社会はどうもこのような雨とは異なり、私たちに何かを突きつけることを避けているような印象を受ける。厳密には、私たちの社会は絶えず私たちに固有の課題を突きつけているはずなのだが、社会の文化や仕組みがそうした課題と私たちが直面することを巧妙に回避させているように思えるのだ。

エリク・エリクソンやロバート・キーガンが指摘するように、私たちが発達をする際には、必ず固有の発達課題を乗り越えていく必要がある。そして発達課題を乗り越えていくための前段階として、そうした課題と向き合う必要があるということを忘れてはならない。

だが、私たちの社会にはどうも、自分に突きつけられた真の課題と向き合うことを奨励しないような風潮があるように思うのだ。際たる例としては、現代社会は人間としての成熟に目を向けさせるというよりも、金銭の獲得に目を向けさせる。

あるいは、金銭の獲得に有益な小手先の技術を習得させることや単なる情報収集を奨励するような風潮がある。そうした風潮は、私たちが発達課題と真に向き合うことを良しとしないのだ。発達課題と向き合う暇があれば、金銭獲得競争に励むことを良しとするような精神がそこにある。このような精神に毒されている限り、真の人格的成熟は成し遂げられないように思う。

こうした精神風土がさらに問題となるのは、発達課題というものの本質を巧妙に隠蔽しているということである。言い換えると、発達課題という乗り越えていくことが極めて困難な現象を骨抜きにし、課題の克服が容易であるかのような錯覚を私たちに与えているのである。

その結果として、金銭の獲得がゲーム化されている状況のみならず、発達に関しても高次の段階を獲得することがゲーム化されてしまうような状況を生み出しているように思うのだ。発達段階を獲得するゲームの世界では、発達課題は乗り越えることが容易であるかのような印象を私たちに与える。

つまり、ここでは発達課題が本質的にもつ髄が骨抜きにされているのである。本来、発達課題とは、今の段階の自分では到底手に負えない類のものなのである。往々にして私たちが発達ゲームの中にいる場合、発達は喜びの感情と対をなしている。

一方、私たちが真に発達プロセスの中を生きている場合、それは苦渋に満ちたものであるはずだ。なぜなら、次の発達課題というのは全くもって今の自分には手に負えないものであり、私たちは絶えずそうした課題と向き合うことを宿命づけられているからである。

私たちは一つの課題を克服したと思った瞬間に、新たな課題を背負わされることを宿命づけられた存在であるため、課題の克服とさらに困難な課題の現出が一体となって無限に続く様を見て、常人であれば喜びの感情など起こらないはずである。

課題の克服によって喜びを感じているのであれば、それは新たな課題を見過ごしていることになり、真の発達プロセスを生きておらず、発達ゲームの中で生きていることを示唆するものだろう。仮に喜びの感情の先にある苦渋さを感じることができたら、それは真の発達プロセスを健全に歩んでいることの証かもしれない。こうした苦渋に満ちた感情は往々にして、自分の発達課題と真に向き合った時に生じる特別なものなのである。

ふと手を止めてみると、先ほどの激しい雨が止んでいるのに気づいた。書斎の窓から空を眺めてみると、激しい雨を降らせた雨雲が東の空に広がっており、西の空には晴れ渡る空が広がっていた。そして、二つの中間の空に浮かぶちぎれ雲が、夕焼けに照らされて赤く光っていた。

ここで私は、対称性の中にあるどちらの極にも属さない存在を見つけることができたのだった。東の空と西の空の中間に位置するちぎれ雲は、中庸の精神の化身であった。

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