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461. 寿司と記憶の自己展開


サラダとチーズが主体の食生活を少し見直そうと思う出来事があった。それ以降、少し変化のある食生活になっている。今日は街の中心部のスーパーで手巻き寿司を購入した。

近くのスーパーには残念ながら日本食は置いておらず、街の中心部にあるスーパーに行かなければ日本食にありつくことができない。日本食と言っても寿司しか置かれていないのだが、置かれているだけでも有り難い。

実は三日前から寿司を食べることを計画しており、スーパーで購入したわずか4ユーロに満たない握り寿司を自宅で口に運んだ瞬間、思いがけないほどの感動を味わった。それぐらい私は日本食に飢えていたのかもしれない。

実際に、この二ヶ月半は日本食を口にすることはほどんとなく、和食主体の生活からかけ離れていたのだ。食生活というのは他の生活習慣と同様に、自分を形作る重要な生活実践である。

どのような食べ物を身体に取り入れるかは、どのような知識を精神に取り入れるのかと同じぐらい重要である。今日口にした握り寿司のセットは、実にありふれた具材だったのかもしれない。

しかしながら、そうしたありふれた具材の中でも、最も些細な具材と思われるキュウリ巻きを口にした瞬間、喚起されるものが一番あったことには驚きである。それを口に入れた瞬間、日本の夏が蘇ってきたのだ。

その後、キュウリにまつわるありとあらゆる思い出が記憶の玉手箱から溢れ出してきた。目の前の寿司をゆっくり味わうごとに、無数の記憶が喚起されるという状態の中に私はいた。

ここでも外部にある対象物の刺激によって、内側に現象が引き起こされるという図式が見て取れる。より正確には、外部からの刺激によって内側で思考や感情が沸き起こり、そうした思考や感情が自己展開を始めるという図式である。

確かに、記憶の出発点を生み出したのはキュウリ巻きだったのだが、その出発点が一度生まれると、あとは一つの記憶が別の記憶を導き出していくという自己展開が起こっていたのだ。主観的な現象が外部からの刺激に誘発されて生じるということだけではなく、そのようにして生じた一つの現象をきっかけに、主観的な現象が自己展開を開始するというのは注目に値することだと思った。

今回のケースで考えると、一つの記憶から別の記憶が次々に想起されていったわけであるが、触媒となった記憶と新たに想起された記憶との間にはどのような関係があるのだろうか?私には認識できないようなネットワーク構造があるのだろうか。

直感的に理解できるのは、それらの連鎖がランダムに起こっているわけではなく、何かしらの関係性や法則性のもとに生み出されているということである。もしかすると、これはダイナミックシステムアプローチを脳の研究に適用しているコネクショニズムの研究領域に近い話なのかもしれない。

記憶は無秩序に想起されるのではなく、一見無秩序に見えるものの中にある秩序性によって想起されているような気がしたのである。先ほど想起された記憶の連鎖をたどってみると、やはりそこには何かしらの関係性があるようなのだ。

ただし、まだよくわからないのは、記憶間の関係性というよりも、自己展開を生み出す力そのもの、つまり記憶を連鎖させる力そのものの正体である。この力の正体は、思考が思考を生み出す自己展開力とほとんど同一のものなのではないかと思う。

仮にこの力の正体が分かれば、知性や能力の成長を考える上で大きな発見事項になるだろう。ここで一瞬嫌な予感がしたのは、それは「自己組織化という現象である」と一言で片付けてしまいそうな自分がいることだ。

今着目しているのは自己組織化という現象そのものではなく、自己組織化を生み出している内在的な力そのものなのだ。このテーマは一筋縄ではいかない。アリストテレスやカントが何やらヒントになるようなことを述べていたように思うので、彼らの発想を参考にしながら時間をかけて探っていきたい論点だ。

この続きを考えるためには、来週また街の中心部へ行き、スーパーで同じ寿司を購入する必要があるかもしれない。

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