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456. ロバート・シーグラーの「多重波モデル」


今日は何と気温が10度後半に達するという極めて暖かい日になるそうだ。日曜日にこうした気温になるのは有り難く、朝の仕事を終えたらランニングに出かけようと思う。

起床から一時間ほど仕事をした後に、書斎の窓から外の景色を眺めた。すると、空が朝の太陽に薄赤く照らされていた。空に浮かぶ雲も同様の恩恵を受けて、薄赤く照らされている。

今この瞬間の私の目の前には、なんとも形容できない美が顕現されている。薄赤く照らされた雲は、とてもゆっくりとした速度でかすかに動いているのがわかった。その様子に目を凝らしていると、それらの雲は空という大海の中で波のような役割を果たしているように思えた。

数多くの波が静かに進行していく様子には、思わず息を呑むものがある。太陽に礼拝を捧げることや空を仰ぎ見ることの意味と意義を実感せざるをえない。

昨日はカーネギーメロン大学教授ロバート・シーグラーという発達科学者の論文 “Concepts and methods for studying cognitive change(1997)”に目を通していた。おそらく過去どこかで、シーグラーについて言及したことがあるかもしれないが、新ピアジェ派以降の発達研究において彼の功績を忘れるわけにはいかない。

シーグラーはカート・フィッシャーやポール・ヴァン・ギアートと同様に、発達のプロセスを研究することの意義を強調した研究者である。ピアジェ派や新ピアジェ派の発達研究では、どうしても発達現象の始点と終点を比較するようなものが多く、始点と終点の間で起こっている微細な発達現象を捉えることが着目されていなかった。

厳密には、そうした始点と終点の間で起こっているプロセスに着目しなかったというよりも、当時の発達研究の方法論では、そうした発達プロセスに迫っていくことができなかったというのが実情である。このような方法論的な限界をピアジェ派や新ピアジェ派は抱えていたために、発達のプロセスをつぶさに観察することができなかった言える。

その結果として、ピアジェ派やロビー・ケースのような新ピアジェ派は、発達現象を階段のようなものとして捉えるようになったのだ。ピアジェ派や新ピアジェ派が抱える方法論的な限界に気づいたシーグラーは、微細な発達現象を捉えていく方法論を確立し、非常に重要な発見をした。

その発見事項が結実したものがまさに彼の「多重波モデル」である。簡単に述べると、シーグラーは発達現象を階段状に捉えたのではなく、幾十にも重なる波のような現象と捉えたのである。実際にシーグラーは、様々なレベルを持った複数の能力があるタスクに対して発揮され、それらのレベルや能力の種類が波の移り変わりのように変動することを実証的に明らかにしたのだ。

彼の多重波モデルでもう一つ重要なのは、発達に伴う大いなる飛躍の捉え方に新しい解釈を施したことである。ピアジェ派や新ピアジェ派の考え方では、発達に伴う大いなる飛躍は段階を移行するときにしか見られないとされていた。

まさに、ある階段から次の階段に移行するときにのみ、段階が跳躍すると捉えていたのである。しかしながら、シーグラーのように発達のプロセスをつぶさに観察してみると、私たちの知性や能力は、段階の移行の時にだけ大いなる飛躍を遂げているのではないことがわかるのだ。

つまり、重大な変化は継続的に起こっているものなのだ。今この文章を書いている私の中でも、大きな変動が内側で起きているのだ。ただしそれらの変動は、寄せては帰る波のようなものであり、注意深く観察をしてみないと、内側でそのような動的な変化が起こっているとは感じられないのだと思う。そのようなことをシーグラーの論文から考えさせられた。

仕事の手を止めて再び窓の外を見ると、薄赤く照らされた雲はもうどこかに行ってしまっていた。空全体が朝の太陽に黄色く照らされ、フローニンゲンの街全体が活動に向けた息吹を発している。今日という一日がまた確かに始まるのを実感した。2016/10/16

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