コンサルティングサービスを含め、どこかの企業と関係を持つ際には、必ず有価証券報告書を眺め、財務分析や企業価値評価のようなことを行ってしまう自分が未だにいる。これは大学の学部時代の専攻の影響がまだ私の中で色濃く残っていることを示している。
もしかすると、そうした過去の専攻の影響というよりも、そもそも企業経営のような外面的な現象を、客観的指標を用いて眺めることを好むというのは、拭い去ることのできない自分の性分の一つなのかもしれないと思った。
実際のところ、財務分析や企業価値評価という類のことからは足を洗ったと思っていたのだが、そもそも自分の根元部分には、客観的な指標を用いて外部現象を眺めることを欲する感情が渦巻いているのかもしれない。
そう考えると、ひょっとして自分はこの五年半という歳月において、人間の内面領域の探究など一切行えていなかったのかもしれないと思わされた。厳密には、今から六年半ほど前に、外側の事象を外側から眺めることはもうやめようと思って日本を離れる決意をしたのだ。
当時の私は、企業活動という外面領域に該当する現象と日々向き合っていた。そうした最中、人間の心や意識という内面領域の探究に舵を切ろうと思って米国に渡った。確かに、当時の私は、人間という存在を脳科学や認知科学などのように外側から捉えるようなことに関心を持っていたわけではない。
実際に私が関心を持ったのは、構造的発達心理学という領域であった。しかし、ここに少しばかり落とし穴があったことに、今頃になってようやく気付いたのだ。構造的発達心理学というのは、確かに人間の知性や能力という内面領域に該当する現象を扱う。
しかしながら、結局そこで採用される探究アプローチは、人間の知性や能力を外側から眺めるということにあるのだ。要するに、これまでの私は人間の知性や能力の内側で起こっている生々しい事象を外側から捉えることしか行っておらず、それらの内側の現象を内側から捉えるということを怠っていたのである。
まさにアメリカの思想家ケン・ウィルバーのモデルを採用すれば、これまでの私は「ゾーン2」の世界から人間の知性や能力を捉えようとしており、「ゾーン1」という内面領域を内側から把握するというアプローチが圧倒的に欠けていたのである。まさにそのツケを今払っているような気がするのだ。
毎日、毎日、自分の内側で起こる現象に目を配り耳を傾けながら、何が自分の内側で起こっているのかを把握せずにはいられないという衝動に駆られているのだ。そうした衝動はまさに、過去五年半にわたってそうした実践が決定的に欠けていたからなのではないかと思うのだ。
仮に、自分の内面領域を内側から把握する試みを「自己探求」と呼ぶのであれば、私の自己探求はオランダに渡ることを契機としてようやく始まったと言っても過言ではない。「自己探求に終わりはない」という言葉をよく聞くが、私に限ってみれば、私は一度も自己探求などしていなかったのではないか、と自分を押しつぶすような猛省をしている。私はここから自己探求を始めていかなければならない。
昨夜就寝前、「文章を書かないのであればそれは自分の生に値しない」という極めて極端な言葉を発している自分が内側から顔を出した。その自分の言葉はひどく偏ったものであるが、改めて翻訳するならば、「内側で躍動する生の流れを絶えず感じながら、それが外側の世界でも生きれるように形を与えないのであれば、それは本当の生を生きていることにならない」というような意味なのだと思う。
とにかく今の自分は、産道からこの世界に何としてでも生まれ出てやろうとする胎児のように、内側のものを外側に表出させようとする、いわば生命力の根源のようなものに包まれている気がしている。
そしてこうした根源的なエネルギーは、人間の欲望とも密接に関わっており、今の自分にはある種、内側の思念や情念に言葉を与え、何としてでもそれを掴みながら外側へ押し出すという欲望を持っているのかもしれない。こうした欲望は私の中の最後の障壁として今目の前に立ちはだかっている。
何気なく眺めていた有価証券報告書が起点となり、そのようなことを思わされた。この五年半の時間は何だったのかと思わされるが、上記のことに気づかされるのにそれぐらいの時間が私には必要だったのだ。ここから真の意味で、自分の内側を探っていくという実践をしていかなければならない。
今日というこの瞬間から参禅がようやく始まったかのような感覚だ。参禅を行うことが難しいというよりも、そもそも参禅を始めることが極めて難しいのだ、と思わされる瞬間であった。