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449. 言葉の自己展開


オランダ語のクラスから帰宅後、最終試験に向けての総復習を簡単に行っていた。その後、研究プロジェクトを少しばかり前に進めるような仕事に取りかかっていた。

夕方の仕事がひと段落したところで風呂に入った。毎日、浴槽に浸っている時は至福の時間であり、身も心も非常にリラックスした状態に自分がいることに気づく。浴槽から出た後に書斎に戻ると、大抵何か新しい考えが自分の思考の海の中の表層に浮上していることがわかる。

そうして浮上してきたものを毎日逃さず掴み続けるというのも、日々欠かさずに行っていることかもしれない。夕方に読書について文章を書いていたのを思い出す。浴槽から出た後に気づいたのは、「生きた読書」の最中では、著者の言葉に触発されて、自分の内側で新たな言葉が芽生えていくような現象が起こっていることに気づく。

「発達(development)」という言葉の語源は、フランス語の”desvolper”であり、それは「開く(拓く)」という意味を持っていることを以前紹介したように思う。自分の中で読書体験が活性的なものである場合、まさに「言葉が開く」というような現象が内側に生じていることがわかるのだ。

生きた読書体験の中では、著者の言葉が引き金となり、私の言葉が自分の足取りで自己展開を進めていくのである。実際に時折見られる例としては、本文中の一行に刺激され、自分の内側で自己展開する思考や感情と向き合ってそれらを文章の形に言語化していると、気がつくとその一行しか読み進めぬままその日が終わることもある。

以前は、一行しか読み進めることができなかったという事実にしか焦点が当てられていなかったため、有意義な読書体験を得ることができなかったと思いがちな自分がいたのだ。しかしながら、それは逆に非常に有意義な読書体験だったのではないか、と思い直すようになっている。こうした思考の転換が起こったのもまさに、読書体験の意味や捉え方が自分の中で変化したからだろう。

自分が能動的かつ躍動的な「生きた読書」を行っているかどうかの基準は、書くことと密接に関係しているのだと思う。書籍や論文を読み、それに対して自分の内側で湧き上がるものを言語化させたかどうかにその基準があると言っても過言ではない。

つまり、読んでは書き、読んでは書きというサイクルが回っているかが鍵なのだ。読んでは読み、読んでは読みというサイクルは、死んだ読書体験の中で生じるものだと思う。そう考えると、やはり今の自分の文章量は圧倒的に不足していると言わざるをえない。

自分が犯しがちな過ちは、読書の最中に自分の内側でザワザワするものがあるにもかかわらず、それを押しとどめて読書を進めようとすることである。つまり、せっかく読書が引き金となって、自分の内側で言語化を待っているものが表出してきたにもかかわらず、私はそれを無視していることがあるのだ。

これは言い換えると、自己展開の切断であり、そうした状況では自分の中で何も深まることはないのだ。自己展開を望んでいる自分の内的な感覚や言葉を逃さず捉え、それらを自発的な運動に導くことが私に求められていることなのかもしれない。

そうした導きを可能にする一つの手だてが、やはり文章を書くということなのだと思う。読むことを起点に据えるのではなく、書くことを起点に据えていく態度が自分に求められている。書く量が圧倒的に足りていないことを痛感させられる毎日である。

今の私には文章を書くという強い渇望感があるようだ。こうした渇望感もまさに自己展開をしようと志す内的感覚の一種であり、それを殺さず自発的な自己展開の波に乗せていくことが大事だ。

鬱蒼としたフローニンゲンの夜空の雲間から、かすかな太陽光が依然として残っていることに気づいた。太陽は太陽として回っている。ここにも自己展開の力が宿っているようだ。

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