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446. ベルグソンと時間の凝縮


今日からアンリ・ベルグソンの全集に取り掛かり始めた。全集をすでに所持していたにもかかわらず、昨年神保町の古書店で “Time and free will (1910)”と “Mind-energy (1920)”を購入した。

どちらも非常に古い書籍であり、前者に至っては、ページの所々にカビが生えており、独特な雰囲気を放っているハードカバーである。ベルグソンの思想は一世を風靡した時期もありながら、科学者たちからはその思想は推測的な実証性に乏しいものと見られていた時期もあったようである。

全集の方を最初に紐解くと、ベルグソンはウィリアム・ジェイムズ、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、バートランド・ラッセルなどに多大な影響を与えていたことがわかる。私は自分の専門領域である知性や能力の発達において、人間の意識について探究することが必然的に要求されており、ウィリアム・ジェイムズから大きな影響を受けている。

また、近年の発達科学が発達現象のプロセスに重点を置いているという傾向も後押しし、プロセスとは何かについて探究する上で、ホワイトヘッドの「プロセス哲学」からも私は大きな影響を受けているのだ。私に影響を与えたジェイムズやホワイトヘッドは、ベルグソンから影響を受けていたことを知り、ようやくこれからベルグソンの哲学思想に足を踏み入れ始めることになった。

本日ひょんな偶然から、「散逸構造論」を提唱したイリヤ・プリゴジンもベルグソンの「生の哲学」から影響を受けていたことを知った。複雑性科学を探究していく上で、プリゴジンの散逸構造論は必ずどこかで目にするものであり、ベルグソンの思想は複雑性科学とも大きなつながりがあるのではないかと思い、ますます全集を読む意欲が高まっていたのだ。

とりあえず、全集に掲載されている “Matter and memory”の論文を読み、その後、ハードカバーの “Mind-energy”と “Time and free will”の順番で読み、再び全集に戻ってくる形で仕事を進めていこうと思う。

そうした決心を固めたところで、再びフローニンゲンでの時間の感覚質について考えさせられていた。直感的な感覚だと、日本にいた時の一ヶ月がこちらの一週間に該当するかのような時間の凝縮性を確かに感じ取っている。

そのように密度が極めて濃い時間の流れの中に今の自分はいるのであるが、気を抜くと時間の凝縮性に押しつぶされそうになることがあるのも確かだ。だが、大変興味深いのは、自分のこれまでの知識や経験というものが、こうした凝縮的な時間感覚の中で一つの統一的なまとまりになろうとしている現象が見て取れる。

つまり、時間の凝縮性によって、内側の知識や経験までもが凝縮されることによって一つの結晶体ができる、という意味である。ただし、そうしたことを可能にするのは、まさに「凝縮」という何かを圧縮する力が働いているおかげであり、その力の前で自分を無防備に緩めてしまうと、自分の存在が押しつぶされてしまうのではないか、というような気づきがもたらされている。

同時にこの圧縮力は、内側の知識や経験を一つのまとまりに形作った後、それを再び展開させていくような力も同時に持っていることがわかる。圧縮する力と押し広げようとするような逆方向の力が同時に満たされるのが、フローニンゲンで私が感じている時間感覚だと言っても良いだろう。

内面世界で火山の爆発が起こるような事態というのは、圧縮する力と解放する力の双方が生み出す現象なのかもしれない。フローニンゲンの街に自分が辿り着いた本当の意味は、こうした現象を自分が通過するためだったのかもしれない。

人間の一生においてこうした体験をするのは、どれぐらいあるのか定かではない。そして、こうした体験をするために要する経験や時間の量もどれほどなのか定かではない。とにかく自分には、これまで生きてきた全ての経験と時間が必要だったとしか言いようがない。

窓から外の景色を眺めると、秋の深まる静かな風と共に今日という一日が終わりに近づいていることが一目でわかった。今日という日が終わりを遂げる時、間違いなく今日という自分も終わりを遂げるのだと了解した。

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