ここ数日間は「文脈」というものについて色々と考えさせられることが多かった。「文脈」というのは、置かれている状況や環境のことを指すのだが、文脈が私たちに及ぼす影響は多岐にわたっており、それは非常に深い意味を持つ言葉なのだと最近特に痛感させられている。
カート・フィッシャーを含め、新ピアジェ派の研究者たちの功績は、私たちの知性や能力は置かれている文脈によって大きく変動するということを実証的に示したことにある。特にカート・フィッシャーの発達思想には、変動性を所与とする複雑性科学の影響が強く見て取れるのだ。
これは実際に、フィッシャーがダイナミックシステムアプローチを発達研究に適用した先駆的研究者のポール・ヴァン・ギアートから多大な影響を受けていることからも明らかである。昨日の「教育における才能の発掘と支援」というクラスでも、文脈が私たちの才能や創造性を規定することが強調されていた。
昨日のクラスで視聴した一つの動画から、私たちの才能というものが顕現する際に、文脈がいかに大きな影響を与えるのかについてハッとさせられた。厳密には、文脈が才能に影響を与えるというよりも、文脈と才能は不可分の関係性を築いているのである。
この動画は、ワシントンDCの地下鉄駅で行われたある心理実験である。ジョシュア・ベルというアメリカのヴァイオリニストをご存知だろうか。この実験では、ラッシュアワー時の地下鉄駅の構内で、プロヴァイオリニストのジョシュア・ベルがみすぼらしい格好に扮し、実際の公演で用いているヴァイオリンを使いながら、コンサートと同じ曲目を駅構内で演奏するというものである。
一時間に満たない時間ではあったが、その間に1,000人を超す通行人がいたものの、立ち止まって演奏を聴いたのはごく数人だったのだ。ベルの演奏は間違いなく名演だったのだが、それが地下鉄という文脈の中で生み出されたものである場合、ほとんどの人はその卓越性に気づかないということを示す実験であった。
この実験には様々な示唆が含まれていると個人的に思う。一つには、私たちの創造性や卓越性というものは特定の文脈の中で生み出されることによって初めて、存在意義や価値を見出されるということである。創造性や卓越性が文脈と切り離されてしまった場合、それはこの世界に存在しなかったものとして葬り去られてしまうのである。
もしかしたら優れた才能がある時代で評価されないことが生じうるのは、その才能が時代という大きな文脈と乖離しているからなのかもしれないと思わされた。いかに優れた創造性や卓越性を持っていたとしても、文化や時代などの文脈とかけ離れたものである場合、それが正当に評価されることはなく、日の目を見ることがないままその人物は消えてしまうことになるだろう。
文化や時代という大きな文脈のみならず、この実験のように小さく文脈をずらすだけでも、私たちの創造性や卓越性は曇らされてしまうのである。日本語で「場違い」という言葉があるが、知性や能力を発揮する場を誤れば、真価を発揮することができず、正当に評価されることがなくなってしまうのだ。
ここから知性や能力の発達について考えた場合、私たちはどのような領域の知性や能力を涵養していくのかを選択するだけではなく、獲得された知性や能力を発揮する文脈を正しく選択する必要がある、ということが言えるのではないだろうか。
今のところ、知性や能力を涵養する場合、それがどの領域に立脚したものなのかを適切に把握している実践者はほとんどいないだろうし、ましてや獲得された知性や能力が真価を発揮する文脈が何であるかをわきまえている実践者はもっと稀な存在だろう。
自分が獲得した知性や能力がどの文脈で通用するのかを見誤ってしまう場合、ラッシュアワーの地下鉄駅構内で名演を披露しながらも、誰からもその価値や有用性を認めてもらえなかった実験の中のベルのようになってしまうだろう。実践者には、知性や能力を涵養する領域を見定める眼と共に、それらを発揮する文脈を見定める眼の双方が求められるということを教えられた実験であった。