今日のオランダ語のクラスでは、不可思議な言語感覚に包まれていた。端的に述べると、言語の文脈把握能力が極めて鋭敏な状態になっており、教師のリセットが話すオランダ語の細部がわからなくても、なぜだか全体の意味がすっと頭に入ってくるような感覚があったのだ。
自己認識としてこれまで持っていたのは、私は日本語でも英語でも相手の話していることの全体感を捉えるのがあまり得意ではない、ということである。比較的短い言葉のやり取りがなされる場合は、日本語でも英語でも相手の話し言葉を理解できるのだが、文章が長くなると、一文一文の形に囚われてしまい、それを組み合わせた時の全体としての意味がわからなくなることが頻繁にある。
言語を司る知性や能力と一括りに言っても、話し言葉と書き言葉では活性化される脳の部位や意識の領域は随分と異なるのではないかと思われる。とにかく、これまでの私は話し言葉の全体感を捉えることを不得手としていたが、今日体感していたのはまさに、話し言葉の全体像を丸ごと抱きかかえるような感覚だったのだ。
あたかもそれは、自己が言語の文脈と同一化しているかのような状態であった。要するに、意識的に文脈を外側から把握しようとするのではなく、自己が文脈の内側に入ることによって、文脈に自分を委ねたまま相手の話し言葉の全体像を捉えていくような状態にあったのだ。
日本にいた時には、日本語を外側から日本語として絶えず捉えようとするような自己が存在していたし、米国にいた時には、英語を外側から英語として捉えようとするような自己が存在していたように思う。そこには言語に対する過剰な警戒心と緊張が横わたっていたような気がするのだ。
不思議なことに、オランダで生活を始めてから徐々にこうした過剰な警戒心と緊張から解放され、言葉の内側に入り込むことができるようになってきていると実感する。言葉を言葉として外側から捉える必要がなくなってきたことは、自分にとってはかなり大きなことである。
私たちは日々多様な文脈に組み込まれながら生活を営んでいる。しかし、どうもこれまでの私はある特定の文脈の中に真に入り込むことを避け、常に文脈そのものを外側から眺めるようにしていたことに気づかされた。
ここでもアメリカの思想家ケン・ウィルバーが提唱した「前・超の虚偽」という古典的な概念が重要である。つまり、文脈に盲目的に没入することと文脈に自覚的に参入することは大きく異なるのである。
この概念を用いれば、これまでの私は文脈に盲目的に没入することを避け、絶えず文脈を外側から認識しようとしていたため、文脈把握の三段構造の中間に位置していたのだと思う。長きにわたって文脈を客体化し続けた結果、思わぬ形で次の構造に到達したのが今日のオランダ語の第十回目のクラスだったのだ。
文脈を真に俯瞰的(超越的)に捉えるというのは、文脈を単に客体化するのではなく、客体化の極地に待っている文脈への自然的な参入だったのだ。今日のクラスは終始、こうした超越的文脈把握力の恩恵を授かっていたように思う。
文章の出だしが生まれる前に書こうとしていた内容は、本日のクラスで習ったオランダ語の助動詞についてだったのだが、いつの間にやらそのテーマは極めて些細なものに成り果てており、結局一言も触れることができなかった。