昨夜の力強い夢に影響を受けながら、今朝はみなぎる気力に充満する形で起床した。寝室に時間を確認できるものを一切置かなくなってから、起床がとてもスムーズなものになった。起床した時に、時間を確認できるものがそばに置かれていると、起床時間があまりに早いと再び眠りについてしまうことがある。
基本的に睡眠は食べることと同様に、必要な分だけ取ればいいと思うので、無理に決まった時間の長さを睡眠に充てる必要はない。今朝は四時に起床した。そこから一日の仕事をスタートさせる。昨夜から少し気づいていたのだが、自宅の湿度がかなり下がっており、寝室が乾燥していた。
フローニンゲンの街は秋というよりも、冬の始まりを告げているようだ。自分の内側で起こっていることも外側で起こっていることも、全てがめくるめく変化していることに気づかされる。ただし、そうした目がくらむような無数の変化の最中でも、私自身は至って淡々としているように思う。
この世界を静かな目で眺めた時、それは万華鏡を回すかのように、目に映る光景が様々な側面を見せるのは確かである。万華鏡の中に現れる世界の意味や様相は絶えず異なったものとして捉えられるのだ。万華鏡を動かすことによって、現象世界の意味や様相が変化するのはごく当たり前のことなのかもしれない。
もし当たり前でないことがあるとすれば、万華鏡を動かすという変化を要因とせず、私の現象世界の意味や光景そのものが自発的に変化していることだろうか。プラトンが魂の特徴として述べた「それ自体の中にある運動」が、私の万華鏡の中の世界にも当てはまっているように思うのだ。
一個人の意味世界の深まるプロセスはつくづく面白いものだと思う。意味付けをする主体とその主体がすでに生み出した意味の残存物がともに変化していくのである。これまで私は、意味付けをする主体のみが変化していくのだと考えていた。
しかしよくよく観察してみると、自分がこれまで生み出した意味そのものが独自の展開法則に則って発展していく可能性を見ている。文章が書き手の意図を超えて自ずから流れていくかのように。過去に生み出した意味そのものが、こちらの意図を超えて自発的に発展していくという可能性を今しばらく保持しておこうと思う。
ここからまた奇妙な出来事に遭遇する。昨夜、夢の世界に参入する前に、夢を見ないあの深い眠りの世界の中では、意味付けをする主体も意味と呼ばれるものもそれら全てが完全に滅却していることに思いを巡らせていた。
禅仏教の観点から言えば、これは端的に私の自覚的自己の鍛錬不足なのだろう。本当に目醒めた者は、深い眠りの中でも自覚的な自己を保っていることができると言われている。この境地は今の私には想像の範疇を超えたものである。
全てを無に帰すあの深い眠りの中において、意味付けをする主体が存在できるのであれば、私たちの主体は本質的に無なのかもしれないと思わされる。そして、主体から生み出された意味は、生み出された瞬間に有意味になるのだが、これも深い眠りの世界の中で存在できるのであれば本質的に無意味なのかもしれない。
そう考えると、有意味と無意味の交差する世界の中を私たちは生きているのかもしれない、と思わされる。私は有意味と無意味が統一された超越的世界で生きる道を探りたいと思う。2016/10/11