昨日計画していた通り、今日は書籍を十分に読む時間があった。時間があったと言うよりも、自発的に時間を作ったわけだが、三日間書籍から離れていたためか、書籍の内容が自分に染み入るようだった。
私は昔から、書籍の内容に長く集中することができず、書籍の内容を頭に入れながら読んでいるというよりもむしろ、書籍に記載されている一つの内容からあれこれと何かを空想しているようなことが多い。そのため、隅から隅まで読んだ本というのはあまり存在していないのかもしれない。
それぐらい、書籍を読むことによって様々な考えが自分の中に湧き上がり、既存の考えと結びつく形で思考が拡散していく傾向にある。こうした思考の拡散を収束させるために、私は文章を書いているのかもしれない。
この数ヶ月は毎日何かしらの文章を書いているが、仮に文章を書かない日があれば、それは自分の思考が拡散しなかった証拠であり、思考が拡散しなかったということは自分の思考に対して何らの刺激がなかったことを意味するように思う。
自分にとって書物を読むというのは、もしかしたら思考の拡散をもたらす働きが多分にあると思わされ、文章を書くというのは拡散した思考を凝縮させるような働きがあるのではないか、ということに気づいた。正直なところ、あまり研究に関係のない書籍ばかり読んでいても仕方ないのかもしれないが、来学期までは論文を読むよりも、手持ちの専門書を読むことに比重を置きたいという思いがある。
そうした思いから、今日も昨日に引き続き、ニコライ・ミルコフの“Kaleidoscopic mind: An essay in post-Wittgensteinian philosophy (1992)”を読んでいた。やはりこの本は、私に多くの気づきをもたらしてくれる優れた哲学書である。
本書を一通り読み終えた後、午後からはカート・レヴィンの “Field theory in social science (2013)”に取り掛かっていた。本書は上記のミルコフの書籍と違い、過去に一度すべての内容に目を通していた。本書の内容も現在進めている研究に対して直接的な関係はなく、論文の中で本書を引用することもないと思うのだが、熱の冷めないトピックが幾つかあるので、その辺りを中心に再読したい。
具体的には、「場理論の構成概念」「場理論と学習」「停滞・退行・発達」「心理学的生態学」「グループダイナミクスの最前線」が自分の関心と合致する項目である。項目を書き出してみると、自分が何に関心を持っているのかが明瞭になり、それらの項目を関連付けることによってまた新しい関心事項が生まれてくるような気がしている。
今回文章として書き留めておこうと思ったのは、ミルコフの書籍を読んで湧き上がって来た考えについてである。一つは、優れた哲学書であればあるほど、そこには質的に高度な構築物が建築されており、言葉の凝縮性を体感することができるというものである。
ある哲学書に対して言葉の凝縮性を体感することができるというのは、往々にして、その書籍で構築されている建築物に自分が圧倒されている場合が多い。これは内容に関する理解も含め、そもそも著者の言葉の力に対して自分の力が及んでいないことに起因する場合が多い。
こうした本こそ、自分を高めていく契機を生み出してくれるものだと思うのだ。数年前のように、手当たり次第に様々な書籍を読むことを止め、こうした書籍とじっくりと向き合って行こうと決めてから、自分の内側ではやはり様々な変化が起こったように思う。
こうした書籍は読むのに時間がかかり、なおかつ全体として理解できる箇所は大抵数ページか数十ページぐらいである。しかしながら、こうした本こそが自分を真の意味で啓蒙してくれるものなのだと思う。