
フローニンゲンの街も完全に秋に入ったようであり、それは気温の低下のみならず、朝夕の太陽の入出時間に如実に現れ始めている。こちらに到着した八月初旬は、夜の十時近くまで明るかったのに対し、現在は夜の七時半を超えるとかなり暗くなっている。
朝に関しては日の出時間が七時近くになっている。太陽を拝む時間が短くなるにつれ、太陽とは一体何者なのかを考えてしまう。日が沈んでいる最中において、太陽は何者でもないかのようにどこかに存在しているように思える。
一方、日が出ている最中において、太陽は自分が何者かであるかを示すような存在感を放っている。何者でもないかのような振る舞いと何者かであるような振る舞いを示す太陽に対して、今の自分が置かれている状況をついつい重ね合わせてしまう思考経路が出来上がっているようだ。
それは、オランダに来てから感じている精神的安らぎと精神的緊張の問題と関係している。オランダに到着してから、当たり前なのだが、自分が日本や米国で何をしてきたのか、どんな専門性があるのかを知っている人は、ここフローニンゲンにおいてほとんど誰もいないだろう。
私が何者であるかを気にかけるような人などほとんどいないであろうし、それはまるで私という存在が全く相手にされていないかのように映ることさえある。逆にこのように自分が何者かを過度に意識して生きる必要がない分、肩に重荷がないことは間違いない。そのおかげで、自分は何者でもないという解放感の中を毎日生きている、という側面もある。
一方、そうした状況の中で、何者かであろうとするような衝動が自分の内側に存在するのは紛れもない事実だろう。私という存在がこの社会の中で与えられた役割を果たすためには、必ず自己が何者であるかを把握した上で何かしらの関与をしてく必要があるのだと思う。
自分は何者でもないというある種の自己解放感と自分は何者かであるという自己限定感の間の相克で揺れ動いているのが今の自分の姿だろう。おそらく、これら二つの対極は自己の成熟過程に不可欠な要素であるとともに、両者の間を揺れ動くことも重要なプロセスなのだろう。
今のところ、これら二つの対極性を統合する動きも見えず、もちろんながらその先にある境地が見えていない状況に置かれているのは事実だ。実際の太陽は自分が何者でもないことや何者かであることを一切念頭に置いていないのと同様な境地があるのだと思うが、今の私にとってそこへ到達するまでの道のりは長そうである。2016/9/28