今日はオランダ語のクラスの帰り道に、珍しく街の中心部にある市場に立ち寄った。ここでは新鮮な野菜や果物、そして肉類や魚介類をリーズナブルな値段で購入することができる。この市場に並んでいるものを見るだけでも関心をそそられるのだが、今日はこの市場で二種類のチーズを購入した。
オランダに来てから、文字通り毎日チーズを一個消費している。近くのスーパーで購入しているチーズとは違う種類のものをこの市場で購入しようと思い、試食をしてみて美味しかったトマトなどの野菜が散りばめられたチーズとハードタイプのチーズを購入した。
お目当のチーズを購入することができたので市場を後にしようと思ったところ、いつも通りこの市場が賑わっていることに気づいた。この市場で毎日どれほどの経済活動が営まれているのかが気になったのだ。その経済規模を概算すると非常に微笑ましいものだったのだが、その計算が終わった途端に、昨日読んだ “The Great British Medalists Project: A review of current knowledge on the development of the world’s best sporting talent (2016)”という論文の内容が頭をよぎったのだ。
この論文は、スポーツにおける卓越性を開拓するための鍵となる要因と最新の研究成果を紹介しており、実践者のみならず政策立案者に向けて執筆されたものである。ご存知かもしれないが、今回のリオ五輪では英国が金メダルの獲得数において米国に次いで世界第二位の地位を獲得した。その背景には、英国政府の多大なる経済的投資が存在していたのである。
少しばかり歴史を遡ると、英国は2008年の北京五輪の時には獲得メダル数において世界第四位であり、その時は国家としてアスリートの支援と育成に対して日本円で300億円ほどの金額を投資している。2012年のロンドン五輪の時には獲得メダル数において世界第三位であり、その時は350億円ほど投資している。そして今回のリオ五輪では、国家として450億円を上回る経済投資をしていたのだ。
今回の五輪において、英国の躍進には敬意を払っていたのだが、これほどまでの経済投資は少し常軌を逸しているのではないかと思わされた。450億円という金額は、おそらく世界の小さな国々の年間GDPに匹敵するものだろうし、英国はこの経済投資を自国の様々な社会問題を解決するために使っても良かったのではないかと思ったのだ。だが、英国がそうしなかった隠れた理由というものがありそうである。
もはや近代オリンピックは、歪んだ政治と不健全な資本主義の癒着と切っても切れないものであるため、世界の他の国と同様に、英国もそれらの癒着が生み出す常軌を逸したメダル獲得競争に国を挙げて盲目的に取り組んでいるのだろう。私はどうも、政治と経済が生み出すこの種の問題に対して、科学もその問題に加担しているように思えて仕方ないのである。
正直なところ、上記の論文は「タレントディベロップメントと創造性の発達」のコースで取り上げられているものであるが、この領域に関する多様な論文を読んでみると、そこには人間の卓越性の発達に関する倫理的かつ哲学的な視点が根本的に大きく欠如していると気付いたのだ。つまり、知性や能力の卓越性というのはどう意味を持つものなのか、どうして私たちは卓越性を発達させていく必要があるのか、という議論を経ないまま、そもそも「卓越性の開発は善である」という前提のもとに全ての科学論文が研究を開始しているように思うのだ。
同種の問題は、そっくりそのまま構造的発達心理学などの領域においても見受けられる。結果として、私たちは卓越性の開発が善であるという思想を盲目的に信奉する形で、人々の知性や能力を開発することに躍起になったり、上記の例のように膨大な経済投資が行われる羽目になるのである。
実際に、世界のほぼ全ての国々がこうした「卓越性開発ゲーム(卓越性向上パーティー)」に従事している有様なのである。自国の様々な社会問題をなおざりにし、挙句には人々をバーンアウトさせてしまう危険性を秘めたこの種の「卓越性開発ゲーム」に純朴に参加できるというのは、やはり現代の地球上の国々は非常に未成熟だと言わざるをえない気がしている。
自分の専門領域が社会の諸々の分野と関係していることを適切に捉え、自己の専門領域が社会に対して不要なゲームを生み出しうる危険性を踏まえた、倫理的かつ哲学的な示唆が含まれた科学論文があまりにも少なく、それには興ざめである。2020年に開催される東京五輪に向けて、日本も英国と同様な道を進みそうな予感がしている。