今日の空を象徴するかのように晴れ渡った気分のまま、近所のノーダープラントソン公園へランニングに行った。早朝から取り掛かっていた研究データの翻訳作業がひと段落し、今日の天気も後押ししたこともあって、体を動かそうと思った。
ちょうど来週は、平日のすべての曜日にクラスも含めて外出しなければならない予定が入っているため、日曜日の今日にトレーニングをしておきたいという思いもあった。ノーダープラントソン公園へ到着すると、気付かない間に木々が少しずつ紅葉し始めていた。公園を取り囲む道路沿いの木々はすでに紅葉を通り越して、葉っぱが地面に落ちてしまっていたのである。
フローニンゲンの街に来たのは夏の季節であったから、このように紅葉が始まるのを目撃すると、時の確かな流れを感じざるをえない。休日のノーダープラントソン公園は、運動をする人たちや家族連れの人たち、それから犬の散歩に来た人たちが集う場となっているが、それにしても程よい人口密度である。
私たちは過剰に人が集まる場所ではストレスを覚えるが、この公園に集う人たちの人口密度は決してストレスを感じさせるものではない。ノーダープラントソン公園には清楚なカフェがあり、今日も何組かの家族やカップルが静かなこのカフェで休日のひと時を過ごしている。
そうした光景を見るだけでも、心の脈拍が落ち着いていくのがわかった。同時に、現代社会でしきりに耳にする「ストレスマネジメント」や「レジリエンス」について考えさせられながら走っていたのである。
確かに、私たちの身体や精神を健全に保つためには適度なストレスが要求される。適度なストレスはある意味、私たちの身体や精神という動的なシステムが健全に機能するための変動性を付与する役割があるかのように思う。そして、適度なストレスというのは私たちが特に意識することなく、身体や精神を健全に保つために無意識的に内側に取り込まれ、かつ無意識的に処理されていくものだろう。適度なストレスは本来的にそうした特性を持つはずである。
そう考えると、そもそも「ストレスをマネジメントする」という発想はどこかおかしいのではないだろうか?おそらく私たちは、マネジメントせねばならぬほど過度なストレスにさらされているのではないだろうか?現代社会を生きる中で様々な種類のストレスが過剰に発生し始めたことを背景として、「ストレスマネジメント」なる概念が創出されたのではないかと思う。これは「レジリエンス」という科学的概念にも同様に当てはまる。
私たちに求められるのは、そもそもストレスマネジメントやレジリエンスという概念が生み出されてきた今の社会状況そのものを見なければならないのではないだろうか。ストレスをマネジメントすることに躍起になったり、レジリエンスを高めようと奮起する前に、そもそもなぜそうした過剰なストレスが生まれているのかという根源を探ることや、精神的な弾力性を発揮しなければならないような過酷な社会状況にまず目を向けることが重要になってくるのではないだろうか。
現代のこうした社会状況に目を向けることがなければ、私たちは人生という貴重な時間をストレスマネジメントやレジリエンスを高めることに費やすことになってしまろうだろう。
思うに、「ストレスマネジメント」や「レジリエンス」という概念は人々に何らの救済も与えていないのではないか。そしてそれらの概念は、一部の科学者と一部のビジネスパーソンの共謀によって生み出されたのではないかと思われるぐらい、人々をそれらの概念に引きつけ、ストレスマネジメントやレジリエンスを高める運動に人々を巻き込んでいるかのように思える。
もちろん、それらの概念は現代社会において必要に迫られて創出されたものなのだろうが、人々がそれらの概念が生み出された社会状況から目を背けさせるかのような力を獲得してしまったことに問題があるように思うのだ。
科学的な概念は、時に社会の問題を解決することに力を発揮するのではなく、社会の問題の根本から私たちの目を背けさせる力を発揮しうることを忘れてはならないだろう。