「タレントディベロップメントと創造性の発達」のコースが行われるレクチャールームに到着すると、すでに教師のルートと20人ぐらいの学生がそこにいた。ルートと簡単に挨拶を済ませ、自分の席を確保した。事前にルートから話を伺ったところ、このクラスは履修定員の70名を超え、80名近くの受講者がいるとのことである。
その話通り、私が席に腰掛けるや否や、多くの学生が教室に入ってきた。オランダ語のクラスとは異なり、このクラスは修士課程以上の学生だけに提供されているため、教室を見渡すと、受講者の年齢が高めであることに気づいた。
この教室は受講者の規模が大きいレクチャーに使われるものであるため、教室は広いのだが、一人一人の席のスペースは狭い。より詳しくは、長机が段差を形成しながらいくつも配置されており、一つの長机で一人が使用できるスペースが狭いのだ。
この教室がある建物は近年リフォームされたかのように綺麗なのだが、教室は歴史を感じさせる雰囲気を漂わせている。教室の片側にはステンドグラスがあり、もう片側には開放的な窓がある。教室の黒板の横には、この大学が輩出した一人の名誉教授の写真が飾られている。
この大学が400年を越す歴史を持っているからなのかもしれないが、学術探究が持つ神聖な側面に対して敬意を表し、それを守っていこうとするような隠れた意図を感じる。
そのようなことに思いを馳せていると、クラスが開始された。最初にクラスの概要が紹介され、本題に入る前に最終試験について説明があった。私は日本とアメリカで高等教育を受けてきたが、オランダで高等教育を受けるのは初めてであるため、成績評価の仕組みについて最初にきちんと理解しておく必要があると思っていた。
コースの中にはアメリカでの修士課程の時と同様に、簡単な論文を学期末に提出するものがある。その一方で、今回のコースのように「デジタル試験」なるものが導入されているコースも幾つかある。このコースにおける最終試験は、受講生が指定のコンピュータールームに行き、そこでコンピューターの画面上に現れる問いに答えていくというものである。
教師のルートに質問してみると、最終試験は七題の完全記述式問題から構成され、各設問は各回の講義の内容と課題図書に紐付いている、とのことである。個人的には、自分の関心テーマに従って短い論文をまとめる形式が一番好きなのであるが、完全記述式問題も好きな試験形式に属する。単に知識の有無を確認するような四択形式だけは勘弁して欲しいと思っていたため、完全記述式問題という形式に関してはあまり議論することはない。
私が教師のルートの立場であれば、今回のクラスの内容を元にすると、「タレントディベロップメントに関する研究の歴史を眺めると、大きく分けて三つの潮流がある。そして、最先端の研究ではそれら三つの立場を統合したアプローチが採用されている。過去の三つの潮流についてその特徴を簡単に説明し、最先端の研究が持つ思想とアプローチの特徴について自由に記述せよ」という設問を最終試験に出題すると思う。
試験時間は二時間であり、設問は七題であることを考えると、この設問に対して17分間を目安に英語で考えをまとめる必要がある。自分がこの設問に対する回答者であれば、今のところ次のように答えるだろう。
一つ目の潮流は、人間の才能を氏の観点から捉えるものである。つまり、私たちの才能は天賦のものであり、遺伝などによって決定づけられている、と考える立場である。歴史を遡ると、19世紀の後半に活躍したフランシス・ゴルトンを代表的な人物として、人間の才能の決定要因を遺伝特質に見出そうとする立場は現在でも存在する。これまでの先行研究が示しているように、遺伝特質というのは確かに私たちの才能を規定する要因の一つである。
例えば、両親のIQと子供のIQには比較的高い相関関係があることを指摘する研究成果があることや、アスリートの両親を持つ子供が身体的な特質を受け継ぎ、親子二代にわたって活躍する例も存在する。そうした遺伝に関する例に加えて、才能の天賦性を示す顕著な例としては、「サヴァン症候群」という特定の領域に対して幼児期から傑出した能力を発揮するようなケースがある。例えば、これまで全くピアノに触れたことのなかった子供が——さらには、両親もピアニストではない場合もありうる——、初めてピアノに触れたにもかかわらず、類まれなリズムと音を奏でるようなケースがある。
サヴァン症候群は音楽に限らず、その他にも一度見た映像を決して忘れないという映像記憶に突出した才能もあれば、膨大な桁数の数字を暗算できるという才能もあるだろう。注目すべきは、それらサヴァン症候群の人が発揮する才能は、環境によって育まれたわけでも、練習によって育まれたわけでもないということである。ましてや、両親の遺伝特質にすら還元できない場合も多々あり、そうした才能はまさに天から与えられたものであるかのように見える。このように、人間の才能を所与のものとみなす立場が第一の潮流である。
一方、二つ目の潮流は、人間の才能を育ちの観点から捉えるものである。この立場は、私たちの才能は環境によって育まれるものである、とする考え方を持っている。歴史的には、フランス・ゴルトンと時を同じくして、スイスの植物学者アルフォンス・ドゥ・カンドールを代表的論客とし、ゴルトンの考え方とは異なり、私たちを取り巻く環境が才能の開発に最も重要であるとする立場である。この立場を採用する先行研究を眺めてみると、確かに、子供の才能を開発することに関して、養育者の関与が有意差を生むという研究がある。
さらには、アスリートの才能を真に開花させるためにはコーチの存在が不可欠であり、このように私たちを取り巻く他者の支援が重要であるとする研究成果は枚挙にいとまがない。微視的な視点で考えると、他者からの支援などが環境要因として挙げられるが、より巨視的な観点から考えるとどのようなことが言えるだろうか?私たちの才能に影響を与える環境要因として忘れてはならないのは、文化的な影響や経済的な影響だろう。
スポーツの例をとると、オランダという国は小国でありながらも、国を挙げてサッカーに取り組むような文化がある。そうした文化に加えて、サッカー選手を育てることに関する経済的な投資も巧みに行っている。こうした投資のおかげで、オランダにはサッカーに取り組む十分な設備が整っているのだ。こうした文化的・経済的な要因を背景とし、オランダは優れたサッカー選手を数多く輩出し続けている。上記のように、人間の才能を微視的・巨視的な環境要因の観点から説明するのが第二の潮流である。
ここですぐに気づくのは、両者二つの立場はともに部分的な真理を内包していながらも、極端な立場であることがわかるだろう。そこでよく提出されるのは、「氏か育ちか」という二者択一ではなく、「氏と育ち」という折衷案である。仮にこの折衷案が人間の才能の発達に関して十分な説明をすることができるのであれば、先天的な才能を持った子供が恵まれた環境の中で育ちさえすればその才能が開花する、と言えることになるだろう。果たしてそれは本当だろうか?
答えは、「一概にそうとは言えない」というものであり、ここに第三の潮流が生まれた理由があるのだ。第三の潮流は、氏と育ちの重要性を認めながらも、人間の才能というのは「領域特定的」な特質を持っており、特定領域における十分な実践を積まなければ、いくら先天的な才能があろうが、環境が整っていようが関係なく、その才能は開花しない、という考え方を持つ。
第三の潮流の代表的な研究者は、フロリダ大学教授のスウェーデン人心理学者アンダース・エリクソンだろう。エリクソンは、「10,000時間の法則(別名「10年の法則」)」を提唱したことで有名であり、ある特定領域における熟慮の伴った実践こそが才能を開花させるために最も重要である、と考えている。
確かに、特定領域で傑出した才能を発揮している人は、多大な資源を一つの実践に投下し、長大な時間をかけて実践に励んだ結果、卓越した能力を発揮しているケースを頻繁に見かける。それでは、熟慮の伴った実践を10,000時間以上行えば、誰でも特定領域に関して優れた能力を発揮できるようになるのだろうか?これも安易にはそうだとは言えないだろう。というのも、エリクソンも表面的に認めているように、やはり先天的な才能や環境的な要因というものが存在しているため、単純に膨大な量の実践を積めば卓越の境地に至れるとは限らないのだ。
それでは、上記三つの潮流を合算した立場はどうだろうか?つまり、「先天的な才能に恵まれ、恵まれた環境の中で熟慮の伴った膨大な実践を積めば、人は誰でも卓越の境地に至れるのだろうか?」という質問に対して、三つの立場の折衷型は「Yes」という回答を自信を持って述べることができるだろうか。私にはそうとは思えない。上記の三つの潮流を単純に合算するだけでは、人間の才能の発達が持つ本質的に複雑動的な側面を適切に捉えきれていない、と考えている。
重要なのは、上記三つの立場はそれぞれに固有の真理を述べていながらも、それらを単純合算するだけでは、人間の才能が持つ動的な発達過程を捉えきれていない、ということなのだ。ここで求められるのが、人間発達に関する最先端の研究アプローチである、ダイナミックシステム理論の考え方と方法にあるだろう。
上記の三つの立場を単純合算するのではなく、それらの要素を掛け算として捉えるためには、特に「ダイナミックネットワークモデル」を採用することが有益だろう。ダイナミックネットワークモデルとは、応用数学のダイナミックシステムアプローチと社会学のネットワーク分析を複合したアプローチであり、人間の才能の発達に関して、遺伝特性、環境要因、実践量などの異なる様々な要因の相互関係を分析していくのである。そ
れらの要素を単純合算的に並列するのではなく、それらの要素間の関係を分析し、それぞれの要素がその人にとってどれだけの影響を与えているのかという度合いまで分析していくのである。極めてモデルを簡略化すると、ある人の才能の発達を一生涯にわたって追跡するとき、遺伝特性の持つ強さ、環境要因の持つ強さ、実践量の持つ強さを定量化し、それら部分部分の要素の度合いを分析するのみならず、それらの要素がどのような相互作用を行っており、それらの要素の度合いがどのように変化してくのかを時系列に把握していくのがダイナミックネットワークモデルの肝である。
もちろん、ダイナミックネットワークモデルは誕生して日が浅い理論的・方法論的モデルであるため、才能を構成する要因の定量化の部分とそれらの相互作用の定量化に関しても改善の余地が多分に残されている。しかし結論として、「人間の才能の発達は複雑かつ動的であり、様々な要素が相互作用することによって育まれるものである」という思想を持つダイナミックネットワークモデルは、上記三つの立場を統合する一つの優れた枠組みであると言えるだろう。
自分が作った設問に対して、私であれば以上のように答えるだろう。実際に回答してみると、17分間の回答時間を少しオーバーしていた。また上記の回答は、当日の試験と同様にテキストや論文を参照することなく、今の私の頭の中にある知識で組み立てたものに過ぎないので、本番の試験に向けて、知識の補強と自分なりの考え方を洗練させておく必要があるだろう。
最後にもう一つ言及しておきたいのは、「問い」が果たす支援的役割についてである。上記のように自分で問いを設定し、自分なりの回答を提示してみるというプロセスを経て改めて気づいたが、「問い」を提供することは、発達支援を行う際に重要な実践方法である「足場固め(scaffolding)」の役割を果たすということである。
私が設定した設問はある意味非常に親切な作りになっており、この問いを読むだけで、私たちの頭の中には「才能の議論にまつわる過去の三つの潮流」と「それら三つの限界を乗り超えた新しい思想やアプローチ」について記述すればいいのだ、というフレームワークが自ずと構築されることになるだろう。こうしたフレームワークを提供し、学習者がそのフレームワークを上手く活用しながら実践を行っていくことが、「足場固め」の本質である。
もし仮に、設問の形を変え、「人間の才能に関する種々の立場や思想について自由に記述せよ」という問いが与えられるとどうだろうか?最初の問いに比べて、フレームワークの輪郭がぼやけていることに気づくのではないだろうか。結果として、この新たな問いの難易度は高くなっている。
もし私が出題者のルートの立場となり、受講生の回答に差をつけたいのであれば、この新しい設問を採用することになるだろう。ただし、このコースの目的が人間の才能の開発に関する受講生の理解を深めることにあり、受講生を選別するものではないと思われるため、教育的には最初の設問が望ましいと思う。
いずれにせよ、私たちが発する「問い」というのは、支援的な特性を強く帯びているということがポイントである。コーチにせよ教師にせよ、あるいは人を育成する立場にある全ての人にとって、どのような問いを——理想としては「どのような問いをどのようなタイミングで」——投げかけるかが、支援される側の学習や発達に多大な影響を及ぼすということをもう一度思い出す必要がありそうだ。