気がつけば九月も終わろうとしている。早いもので、フローニンゲンで生活を始めてから二ヶ月が経とうとしていることにふと気づかされた。十月が近づいてくるにつれ、フローニンゲンの街も徐々に寒くなり始めている。
早朝の起床は、太陽が昇るよりも早くなってしまった。薄暗闇の中、今朝も太陽より早く起床し、早朝から探究活動を開始させた。
現在履修している「タレントディベロップメントと創造性の発達」というコースのおかげで、数年ぶりに産業組織心理学の論文を読むことになった。振り返ってみると、私が師事していたオットー・ラスキーが構造的発達心理学と産業組織心理学を横断するような学術論文を執筆しており、それを読んで以来のことかもしれないと思う。
本日読み進めていた論文は “Talent-Innate or acquired? Theoretical considerations and their implications for talent management (2013)”である。このコースを履修することを通じて、「才能」と呼ばれるものに関する理解が促進させられているのを感じている。
人間の才能に関する過去の学術研究を網羅的に学ぶことだけに留まらず、自分自身の体験や経験を振り返りながら、人間の才能について深く考える機会を得ているのだと実感する。この論文は、人間の才能が所与のものなのか開発されるものなのか、あるいはその両方なのか、と言う古典的なテーマを理論的に整理しながら、企業組織がタレントマネジメントのためのシステムをどのように構築していけばいいのか、という実務的な提言まで踏み込んで行っている。
社会科学系の論文は基本的に、研究対象とする現象の発生メカニズムの解明に焦点を置き、発見事項から実務的な提言につなげていくことを極力控えている印象がある。そのため、そうした学術論文ばかり読んでいると、どうしても現象に対する概念的な知識のみが肥大化してしまい、実務の世界への応用を考えることを怠ってしまう自分がいるので注意が必要である。
興味深いのは、ひたすら科学的な学術論文ばかり読んだ後の自分の内側の感覚と、ひたすら哲学的な専門書を読んだ後の自分の内側の感覚との間には、歴然とした質的差異があるのである。どちらに対しても真剣に向き合った場合に限ると思うが、前者が知識基盤の拡張をもたらす感覚であり、後者が思想基盤の拡張をもたらす感覚である。
知性発達科学者として、私の主な仕事は人間の知性や能力の発達に関する科学的な探究を行うことにあり、実務家としては、そこで得られた知見を企業組織や教育という領域に還元していくことにあると考えている。実務家としての側面を捨てきれないのは、これは私の最初のキャリアが企業組織を相手とするコンサルティング業であったことと密接に関係しているのかもしれない。
研究大学と謳っているフローニンゲン大学では、その名にふさわしく科学者養成のための非常に体系的なトレーニングが提供されている。こうしたトレーニングを受けるにつれ、科学者としての本業は既存の知識体系を網羅的に理解した上で新たな知を生み出していくことにあるのだが、そこから実務家として、既存の知と先端の知を単純に備えた状態で実務の世界に関与していくことに対して疑問を呈する自分がいるのだ。
つまり、企業組織という領域にせよ、教育という領域にせよ、実務の世界の中で戦略や仕組み、政策を立案していく際に、既存の学術的な知を網羅的に理解し、最先端の知を携えているだけでは、全くもって通用しないのではないか、と思う自分がいるのだ。直感的に、そうした知識基盤というのは生命の外形であって、生命を真に動かす生命力ではないような気がしているのだ。
私の中では、そうした生命力に該当するようなものが思想や哲学と呼ばれる類のものなのではないかと思っている。こうした思想や哲学は、戦略・仕組み・政策の中では目に見えるものとして現れてこない。だが、思想や哲学が戦略・仕組み・政策の生命力として機能しているのであれば、私たちはそれを蔑ろにしてはならないと思う。
一人の科学者として、一人の実務家として、やはり思想や哲学を深めていく試みを止めてはならないのだと痛切に感じる。