フローニンゲンの夕方の空に、くっきりとした形を持つえんじ色の太陽が沈んでいくのが見える。昼間は自分が意識しないところで世界を照らしている太陽をこのように自覚的に眺めていると、この世界にあのような強烈な光を放つ物体が存在していることに驚きを隠せない。
その太陽が、窓から見える視線の先のはるか彼方の西の地平線に沈んでいくのが見えた。その地平線は紫色を帯びたえんじ色に彩られていく。太陽が西へ沈んでいくのを目撃した時、太陽が動いているのではなく、地球が太陽の周りを動いていることをはたと思い出した。そして、この運動を引き起こしているのが私の目には見えない「重力」と呼ばれるものであることに対して、神妙な気持ちにならざるをえなかった。
今日という一日も終わりに近づいている。今日の私の探究を動かしていたものは、私という小さな存在というよりも、何かこうした太陽のような存在があるのではないか、と思わざるをえなかった。そして、そうした存在と私との間には、重力のような目には見えない力が働いているのではないか、と想像せざるをえないような気持ちだったのだ。
やはり、ここ数日間は高波に乗っていた自分がいたようだ。と言うのも、昨日は普段の分量を逸脱する形で探究活動に従事してしまったようなのだ。学びの量が過多であったため、それを自分の中で整理・消化させるのに普段よりも一時間半多い睡眠時間を必要としたのだ。
現在は止めているが、昨年までの数年間、毎日どのような分野にどれだけの探究時間を割いているのかをエクセル上にデータとして残していた。そのデータを年間を通して眺めてみると、もちろん探究時間には波があるのだが、平均すると毎日十時間ぐらいの探究時間になっていることがわかった。
定量的な側面と定性的な側面の両方を勘案すると、一日に九時間の探究時間では全く物足りない自分がいる一方、一日に十二時間を超えるとそれは自分にとって大きな負担になることがわかっていた。昨日はどうやら、十三時間を超える形で机の前にへばりついていたようなのだ。
そういえば、先週末のランニングの際にも、新しいコースに乗り出していき、膝に負担がかかってしまうぐらい走っていた自分がいたのである。自己管理というのは実に難しいものだと思わされる。私の中で特に重要視しているのは、残りの人生の間中、自分の仕事を継続させていくことにあるため、こうした一時的な負荷とどのように付き合っていくのかを考える必要がありそうだ。
いかに一定の量で一定のペースで探究を継続していこうと思っても、人間の学習プロセスは非連続的な特徴を強く持っているため、必ずや平均を逸脱した異常値に今後も絶えず直面すると思うのだ。自分や外側から異常値を招き入れるのではなく、異常値の側から自分にやってきた場合には、そうした異常値と比較的良好な関係を結ぶことができるのかもしれない。
昨日は何も、十三時間にわたる探究活動をしようと思って一日を始めたわけでは決してない。結果として、探究時間が十三時間に達していた、というだけの話であり、自分からこのような探究時間を設定して探究を始めたり、外側から強制させられていた場合には、自分の学習曲線が描く軌跡に対して悪影響を及ぼしていたのではないかと思う。
とりあえず今は、異常値の側から自分にやってくる現象を一種の生理現象とみなし、それを特別のものとみなさないような考え方が必要なのだろう、と思っている。