勉強したいという気持ち、研究を進めたいという気持ちを抑えることができず、今日は休日にもかかわらずいつもより30分ほど早く起床した。早朝のルーティンをこなしている最中、研究に関するアイデアが閃いたのでそれを研究ノートに書き記しておいた。今の私は確実に、フローニンゲンという街が持つ学術的な雰囲気やフローニンゲン大学の仲間達から非常に良い影響を受けているように思う。
一言で述べると、私という一人の探究者が探究を加速させてくれる極めて質の高いネットワークの網の目に組み込まれており、ネットワークの一つの結び目としてそのネットワークと相互関与の関係を結んでいるような感覚なのだ。
人と人との結びつきや、人と組織の結びつき、組織と組織の結びつき、組織と社会の結びつきなど、この世の中は無数のネットワークで構成されている。私の中で、そうした「ネットワーク」というものがここに来て一つ重要なキーワードになっているようなのだ。
振り返ってみると、今から十年近くも前になるが、学部生の頃に、経済政策を専門とされておられる山内弘隆教授の「ネットワーク経済分析」というクラスに強く関心を惹かれ、主に経済学や経営学の観点からネットワークについて学びを深めていたことを思い出した。その後の人生では、ネットワークをとりわけ意識するようなことはなかったが、ここに来て、人間の知性や能力の発達あるいは組織の発達におけるネットワークの重要性に着目し始めている自分がいるのだ。
そのようなことに思いを馳せながら、昨日、博士課程に在籍中の友人であるドイツ人のヤニックの研究室を訪問した時、ネットワークについてあれこれ意見交換をした。ヤニックは現在、スポーツ選手のキャリアの中で停滞期と成長期を生み出すメカニズムの解明に「ダイナミックネットワークモデル」を適用している。
特に、停滞期からの回復という「レジリエンス現象」を生み出す種々の変数間の関係性を探究するために、ダイナミックネットワークモデルを活用しているとのことである。
ダイナミックネットワークモデルという私にとっては新しい理論的・方法的枠組みについてヤニックと議論することによって、いろいろと気づかされることがあったのだ。ヤニックとの対話を終え、キャンパス内を散歩していると、記事341で書いた「問いと答えの連続的・非連続的発達過程」について、問いと答えは一つの動的なシステムを構築していると見て取ることはできないだろうか、という考えが湧いてきた。
つまり、問いという一つの変数(要因)と答えという一つの変数(要因)が互いに影響を与え合う一つの動的なネットワークを構築しているのではないか、ということである。そしてこのネットワークの特性は大きく分けると二つあるように思えたのだ。
一つは、問いと答えが上昇スパイラルを描くシナリオである。要するに、問いがあるから答えが生まれ、答えがあるから新しい問いが生まれる、という両者がお互いを強化し合うようなポジティブフィードバックを生み出す「自己強化型システム」という特性である。
こうした自己強化型システムを持つ現象は私たちの身の回りに溢れているだろう。学ぶことが好きだから学び、さらに学ぶことによって学ぶことがより好きになる、という例が挙げられる。たくさん食べるから胃が大きくなり、胃が大きくなるからたくさん食べる、というのも一例だろう。
一方、問いと答えは下降スパイラルを描く可能性もあることを忘れてはならない。つまり、問いを立てないから答えが生まれず、答えが生まれないから新しい問いが立たない、というネガティブフィードバックを生み出しかねない「自己衰退型システム」の特性も持っていると思うのだ。
これまでの経験上、自己強化型システムの特性を持つ問いと答えの発達的変容サイクルが、私たちの知性や能力の発達を促す鍵を握っていると思っている。要するに、自己強化型システムを駆動させる出発点である問いを立てることをしなければ——あるいは問いが与えられなければ——、特定領域の知性や能力は決して高まらないと思うのだ。
自身のリーダーシップ能力の限界に悩み、それを伸ばそうと思う人には限界を乗り越えるための問いが必ず立つと思うのだ。スポーツの世界においても特定の技術を高めたいと思う時には、どのようにすればその技術が高まるのか、という問いが必ず立つはずである。
仮にそうした問いが生まれなければ、あるいは支援者から問いを与えられなければ、知性や能力は伸びないのではないかと思う。ヤニックが指摘していたように、ネットワークの構成要素は理論上無限にあるため、問いという変数を生み出す他の変数が存在している可能性があることをもちろん忘れてはならない。
しかし、下手をすると、問いがないから答えが生まれない、答えがないから問いが生まれない、という下降スパイラルの渦に巻き込まれてしまい、知性や能力がそれ以上育まれないという可能性があることには注意が必要である。