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361. 自我の発達と言語の発達の共通点


昨夜は、昨日の午前中に参加したオランダ語クラスの内容を復習していた。学習内容を復習しながら、発音にせよ、文法にせよ、単語にせよ、目の前には未知なる言語の大海が広がっているのを感じていた。同時に、自分が日本語や英語を学んできた過程を振り返ってみると、これらの言語を学び始めた時も今と全く同じような状態からスタートしたのだ、と思わされた。

ほぼ白紙の状態で生まれ、日本語に溢れる環境の中で日本語を習得してきたプロセス。アルファベットという日本語とは似つかない文字体系に初めて触れた小学六年生の時から、少しずつ手探りで英語を習得してきたプロセス。長大な時間をかけてそれら二つの言語を彫琢し続けてきた結果として、今の自分の言語体系があるのだと思うと、とても感慨深い気持ちになった。

始まりの足取りはいかにおぼつかなくても、障害を乗り越え、紆余曲折を経ながら歩き続けることによってしか、そうした言語体系が自分の中で構築されることはない、ということを知る。今この瞬間において、自分の中にあるオランダ語という建築物は、土台すら存在していないようなまっさらな状態である。

ここから確かな足取りで歩き始めるということ、始まりはいつもこうであったということ、そして時間をかけて歩き続けることによってしか到達しえない境地がこの世界には存在しているということ。それらを片時も頭から離さずにオランダ語の学習に取り組んでいく必要があるのだ。

昨日のクラス終了後、英語空間内における日常の身体と精神を手放し、オランダ語空間内に構築し始めた極めて脆弱な身体と精神でフローニンゲンの街の中心部に買い物に出かけた。すると、オランダ語空間の中で誕生し始めたばかりの私の身体と精神は、街の中に溢れる未知なるものにかき消されそうになっていた。それぐらい、街の中には今の私のオランダ語力では認識できない曖昧なものが無数に存在していたのである。

そこからふと、過去のゼミナール「発達理論実践編」での議論を思い出した。その時は、自我の発達研究の大家であるジェーン・ロヴィンジャーに触れ、「自我の発達とは曖昧なものを受け止められる許容度の発達である」とロヴィンジャーが述べていることを紹介した。要するに、自我の発達とは自分の中でどれだけ矛盾を受け入れられるかどうか、異質なものを受け止められるかどうかの度合いの発達である、ということである。

このことを紹介した時、ある受講生が興味深い話を共有してくれた。文科省にいたある英語教師の方が、「英語でのコミュニケーションが上達するためには曖昧さに耐える能力を身につけることが不可欠である」という趣旨のことを述べていた、とのことである。

これは至言であり、そこには幾つかの重要な洞察が内包されているのではないだろうか?一つには、私たちのコミュニケーションというのは、各自の思考や感情といったそもそも実に曖昧なものに立脚する形で成り立つものである。母国語である日本語でさえ、話し言葉を使っている時には正確な文法に則っているわけではなく、実に曖昧な文脈の中でお互いの考えや気持ちを推察しながらコミュニケーションが進行していくのである。

このようにコミュニケーションというものは、実に曖昧なものに包まれた状態でなされる行為だと思うのだ。これが母国語ではなく、英語になるとその曖昧さの度合いは一層高まる。英語というのは普遍語の地位を確立していながらも、それぞれの国に固有な英語が存在していると思う。日本人の英語を他の国の人が聞くと、全く理解されないというようなことが頻繁に起こるが、なぜだか日本人だとその日本人が言っていることの意味がわかる、という経験をしたことはないだろうか。

これはもしかしたら、日本には固有の英語が存在しており、それは日本文化の影響を受けたものであるため、同じ文化圏の人間であればいかに発音が汚くても意味内容が理解できてしまう、ということが起こるのではないだろうか。日本文化に影響を受けた英語が存在しているのと同様に、世界には様々な文化の影響を受けた英語が無数に存在している気がするのだ。

表面的なところで言っても、日本人の英語の発音は独特であるし、インド人の英語の発音やスペイン人の英語の発音もまた独特なのである。この「独特」ということは曖昧さと密接につながっており、同じ独特性を共有していない場合、他の国の出身者が話す英語は実に聞き取りにくい曖昧なものに変貌する。

英語のリスニングに限ると、こうした曖昧さを受け入れられるようになること、つまり多様な音を認識できるようにしていくことが重要なのだ。英語を話す人の数と同じだけの無数の音声領域が存在するのだ、と思っても差し支えはないだろう。そうしたおびただしい数の音声領域に圧倒されることなく、耐久性を高めていくことがリスニング能力の向上過程で求められることなのではないか、と思うのだ。

聞き取れる音域の幅を広げることは、理解できる領域の幅を広げることにつながり、ひいては曖昧なものに押し潰されることなく自分の中にそれを受け入れていくことを意味する。

このようなことを考えてみると、ある言語を習得するというのは、曖昧さに押し潰されることなく、曖昧さを受容した形で他者とコミュニケーションが図れるようになってくることなのではないかと思う。同時に、新たな言語を習得することによって、学習主体の自我そのものがより曖昧なものに耐えれるようになってくる気がするのだ。

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