早朝、五時過ぎに起床すると、辺りは闇であった。それは夜の闇とは性格を異にするものであり、太陽を出迎えるための小さな躍動感を含んでいる。小鳥の鳴き声が聞こえる。こんなに朝早くにもかかわらず、通勤のために自転車を漕いで駅に向かう人もいる。
再び今日という新たな一日が始まるらしい。新たな一日が始まるという不可解な出来事に困惑し、今日という一日を生き切るという決意に満ちた気持ちになるのは、いつも早朝の起床した瞬間である。
これは時々起こることなのだが、今朝起床した瞬間に、自分がいる場所がわからなくなるという事態に遭遇した。正確には、自分がいる場所を誤解するというような感覚である。今朝起きた場所はフローニンゲンの今の自宅ではなく、東京の以前の自宅であるかのような錯覚があった。
この錯覚は瞬間的なものであり、部屋を見渡すと大抵はすぐに今の自宅であるという認識に至る。これは通称「寝ぼけ」と呼ばれる現象かもしれないが、それで済ますことのできない意味がそこに存在している気がするのだ。どうも、過去の記憶が現在に流れ込み、過去と現在の割れ目が埋められているような感覚がするのである。
当然ながら、過去の記憶を生み出す主体は現在の私であるから、過去の記憶はすでに現在に流れ込んでいると言えるかもしれない。しかし、今朝感じていた感覚というのはそうではなく、過去の記憶を経験していたその時の自己と現在の自己が遭遇するような感覚なのだ。実に不可解な感覚である。
先日、哲学科に所属するキューバ人のシーサーと禅美術の話になった。どうもシーサーは、芸術にも関心があり、西洋美術のみならず東洋美術にも関心があるようなのだ。そこで十牛図の話になった。
私:「そういえば、シーサーは『十牛図』で知ってる?」
シーサー:「いや、ちょっと知らないね。どんなアートなの?」
私:「それは禅アートの一つで、簡単に言うと悟りへの道を表現したものだね。今写真を検索してみると・・・。あぁ、あった、これだね。」
シーサー:「へぇ〜、面白い。こんなアートがあったのかぁ〜。ん、英語のタイトルは “Ten Bulls”って言うみたいだね。なんで牛なの?何かの隠喩だと思うんだけど。」
私:「あぁ、それはいい質問だね。確か、牛は人間の心を表していると聞いたことがあるよ。牛を人間の心として再度この絵を眺めてみると、ここで語ろうとしているストーリーがより見えてくるよね。」
シーサー:「あぁ!確かに。自分の心を認識し、それを掴もうとし、うまく捉えられるようになってくる。そこから心を超越して再び元の現実世界に戻ってくるようなストーリーになってるんだ〜。」
私:「うん、僕もそう解釈してるよ。」
シーサーとのやりとりの最中、十牛図の牛の写真を見ていると、自分の心の性質について思いを巡らさずにはいられなかった。写真の中には、牛を手なずけている姿が見られるが、果たして私は自分の心を手なずけることなどできているのだろうか?という疑問がわき上がったのである。
人間の心というのは温和な側面もあれば、闘牛のような側面もある。このところ、自分の心が闘牛に化け、何かに向かって猛烈に突進しようとしているのをよく感じる。こうした闘牛のような心の側面は、間違いなく自分の力強さを生み出す根源のようなものであり、非常に大切なものだと思っている。
この闘牛と自己をともに超越していくまでの道のりはとても長く、当面はこの闘牛を乗りこなすことが優先課題と思う。
気がつくと、早朝の闇が消え去り、広大な水色の空に朝焼けが塗られていた。今日という一日が確かに始まるのだと感じる。