発達心理学者のアラン・フォーゲルの論文を読みながら、新たなアイデンティティは、過去もしくは現在の自分について記述することを通じて徐々に立ち現れるのではないか、ということに気づいた。アメリカから日本へ、日本からオランダへと生活環境を変えたことに伴い、見えないところで自分を上へ突き上げようとするような不思議な力を毎日感じている。
アイデンティティの発達を探究する多くの研究者が指摘しているように、自己の精神が立脚する文化の変化はアイデンティティの発達を強く加速させるのだ。また、置かれている文化を変えることによって、自己に対する新たな課題や要求が突きつけられることになる。こうした課題や要求を乗り越えて初めて、真の意味でのアイデンティティの発達がもたらされるのだと思う。
以前の記事の中で、アイデンティティの発達とは「そこにあること」と「何かになること」の均衡関係の絶妙な変化によって生じる現象であると述べた。フォーゲルの論文から考えさせられたのは、新しいアイデンティティはどうやら、「そこにあること(現在)」と「そこにあったこと(過去)」を絶えず確認することによってしか生まれないのではないか、ということである。
今の私は耐え難い上昇力学に晒されていると感じており、日々の生活の中でやたらと「現在の自分」と「過去の自分」に関することを文章の形で書き留めようとしていると思うのだ。ここには確かに、新しいアイデンティティを構築しようとする自己の運動を見て取ることができるのだが、そこだけに目が行くと、おそらく新たなアイデンティティは砂上の楼閣のようなものとして脆弱な形で形成されてしまうような気がしている。
それを防ぐために、私は無意識的に「そこにあること(現在)」と「そこにあったこと(過去)」を確認するような作業を毎日毎日繰り返しているように思うのだ。このことに気づいたとき、私はこうした確認作業を、現在と過去の自分にくさびを打つようなイメージとして捉えていた。
しかしながら、それは現在と過去の自分にくさびを打つというよりも、新しいアイデンティティとこれまでのアイデンティティとの対話なのではないか、と認識を改めたのだ。ここで私は、フランスの哲学者ポール・リクールが提唱した「対話的自己」という概念を思い出した。
自己は絶えず自分自身と対話を行いながら発達していくのである。その本質には過去・現在・未来のアイデンティティが対話をすることにあると思うのだ。こうした三者間の対話がなければ、新たなアイデンティティが堅牢に形成されることは起こりえないのではないかと思われる。
不思議なほど毎日現在のアイデンティティと過去のアイデンティティと対話を行っているのは、そのような理由があったのだと思う。自己が未来のアイデンティティのみと対話の機会を持とうとするとき、それは幻影との対話となる。
自己はあくまでも、過去・現在・未来のアイデンティティの対話を促す仲介役としての役割に徹するべきだろう。