オーストリアの生物学者ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ(1901-1972)の主著 “General system theory: Foundations, development, applications (1968)”を一通り読み通すのに数日要した。本書は今後も折を見つけて何度も読み返すべき書籍であると思う。
本書から考えさせられた点は無数にあるが、一つ重要なものとして、発達過程で必ず見られる「退行現象」が挙げられる。発達過程において分化が不十分であることによって、本来発達に必要な統合化が起こらず、発達課題として積み残しになったまま成長を遂げてしまうケースが多々ある。
そうしたケースが多々あるというよりもむしろ、私たちは大なり小なり、こうした積み残しを抱えたまま発達プロセスを歩んでいると言える。これは、 “A guide to integral psychotherapy(本書については記事215を参照)”の著者マーク・フォーマンも指摘している点である。
分化のプロセスが不十分であり、過去の発達段階の要素が積み残しになっている場合、様々な外的刺激によってそうした積み残しが顕在化してしまうことがあるのだ。これは、未消化のものが外側に溢れ出してくるイメージである。まさにこうした現象が退行と呼べるだろう。
ジョン・エフ・ケネディ大学時代に履修していた臨床心理学の授業を思い出すと、これまでの臨床心理の現場では、退行現象を幼児期のトラウマなどに限定しがちであった。この背景には、伝統的な臨床心理学が幼少期の経験や記憶を重視するフロイトを代表とした精神分析学の影響を多分に受けているからだろう。
しかし、システム理論を活用した近年の臨床研究を見ていると、どうやら幼少期のトラウマのみを退行現象の要因とみなすことはできないようなのだ。退行現象の多くは、トラウマ的なものによって引き起こされるという限定的な説明ではなく、過去の発達過程において十分に自己に統合化されなかったものによっても引き起こされる、というより広い解釈が必要なのである。
まさにこれまでの発達過程の中で統合化されず未分化の状態で残っているものの最たる例がトラウマだと言えるだろう。しかし、トラウマというのは未分化の最たる現象であって、トラウマに分類されない未分化現象を私たちは多く抱えているのである。
ロバート・キーガンの発達理論を用いて例を考えてみると、発達段階4に重心を置いている人が発達段階3を十分に経験してこなかった場合、その人の中に発達段階3の要素が未分化なまま残っていることを意味する。
そうなると、この人は発達段階3に退行してしまうリスクを多分に残していることになる。結果として、この人の現在の発達の形は歪なものとなっている可能性があるのだ。
上記のように、退行現象の根源を単純に幼少期のトラウマに限定しないことによって、これまで見過ごされていた退行現象の思わぬ引き金を発見することにつながったり、臨床実践の際に分化と統合化を進めるより包括的な支援を行うことができるのだと思う。
ベルタランフィが書き残したシステム理論と臨床心理学を関連付けた章を読むことによって、上記のようなことを思ったのである。結局のところ、退行現象というのは発達過程における未分化の要素から生じており、それを自己に再度統合化させるためには、未分化のものを適切に分化し直す必要があると考えている。
自分自身を振り返ってみると、ここ一年間において頻繁に過去の記憶が立ち現れるのはもしかすると、記憶として想起される経験が自分の発達過程の中で未分化のものとして積み残しになっており、言語化という光を当て、言葉の分節化機能を用いて適切に分化し直すことを要求しているかのようである。
未分化のものを放置せず、言語化という実践を通して再度分化させるという工程を経て、自己の内側にそれを統合化させるというプロセスの重要性は、どうやら自分の経験に根付いた気づきのようなのだ。