(ロベルト・シューマンによる自筆メモ)
相変わらず専門書や論文を読むか、何か文章を書くかで満たされている毎日である。読むことと書くことによって満たされている毎日に自己を預けてみると、自分の中で何かが満たされているのを確かに感じる。そう考えると、やはり自分にとって読むことと書くことは生きていくために不可欠な実践なのだと思う。
そうした日常に最近はオランダ語の学習が加わった。新たな言語を学習するというこの実践を通じて、人と話すことの中にも充実感を見出したい。
今の私はそうした日々をフローニンゲンで送っている。今日は時間に余裕があるため、欧州小旅行の写真や資料を整理していた。特に自分が撮影した写真を眺めていると、何に一番関心を示していたかというと、偉大な創造者たちが残した手書きのメモや日記類だった。
先日の欧州小旅行の時にライプチヒで最初に訪れたシューマン博物館では、シューマンが手書きで残した日記や楽譜を気の済むまで眺めていた。これはその後に訪れた他の音楽家や哲学者の博物館においても同様である。
彼らの探究過程を観察していると、興味深いことに気づいた。偉大な創造者たちは例外なく、自分の手を動かし、何かを書きながら絶えず考え続けていた、ということである。
例えば、シューマン、メンデルスゾーン、バッハなどの音楽家であれば、作曲活動に絶えず従事し、その過程で膨大なメモや日記を残しているのである。彼らが残したメモや日記をよくよく観察してみると、それらは作曲活動に直接結びつくようなものであるとは限らず、中には購入したパンの値段を律儀に書き残している者もいたのだ。
もしかしたら一般的な考え方と反しているかもしれないが、メモや日記というのは後から見返すためにとるようなものではなく、その瞬間における思念や感情を外に表出するためにメモや日記をとることが重要なのだと思う。
「偉大な創造者はあちらの世界のものをこちらの世界に降ろしてくる」ということをよく耳にするが、あちらの世界のものをこちらの世界に降ろすためには、その道管役となる本人の中で密なエネルギーが流れる状態になっていなければならないのだ。
もし仮に日々の雑多な思念や感情が内側に溜まったままであると、この創造エネルギーの流れが滞ってしまうのではないだろうか。あるいは極言すると、創造エネルギーというものは本質的に、何かを創造しようとして絶えず外側に自己を表現している者にしか流れないのではないか、と考えている。
さらに興味深かったのは、そうした偉大な創造者たちが書き残す文字は極めて小さいのだ。緻密な文字でびっしり埋められたメモや日記には、何か私たちを圧倒させるようなものがある。
緻密な文字が緻密な思考を担保するとは限らないかもしれないが、緻密な文字が自分の内側から外側へ出て行くというのは、本人の中に緻密な創造エネルギーが流れており、それが外側に表出されるときに緻密な文字としての形を持つのではないかと思わされる。
まさにこうした緻密な創造エネルギーというのは、構造的発達心理学の観点においても、高度な段階に到達した人の中に流れているものなのである。高度な段階に至れば至るほど、微細な現象を把握することができるようになるというのはよく言われることであるが、それを可能にするのは微細かつ緻密なエネルギーがあってこそなのだと思うのだ。
こうした微細かつ緻密なエネルギーを自己にもたらすために、偉大な創造者たちは意識的にせよ無意識的にせよ、自分の手を動かしながらメモや日記をとっていたのかもしれないと思わされた。2016/8/27