これはつい先日の欧州小旅行でも感じたことなのだが、多くの国の人にとって英語というのはもはや外語国ではないのではないか、という考えが芽生え始めている。もちろんこれは高度な英語の読み書きではなく、話し言葉の次元に限った話である。
先日の旅行で訪れた国々が先進国であり、様々な国から人が訪れる観光地だったということもあると思うが、それにしても英語を使って相手とコミュニケーションが図れないというような不自由さを感じたことはほとんどなかった。
これはまさに英語が普遍語としての地位を確固たるものとしていることを示しているかのように感じ、いまだに英語を外国語として学習しようとしている日本の状況は、語学的には極めて次元が低いのではないかと思わされたのだ。
そうした母国の外国語事情に加え、ここ最近、オランダ語を学べば学ぶほど、自分の日本語力と英語力の貧弱さに愕然とし始めているのだ。母国語である日本語ですら未成熟であり、英語ですら発展の余地が無限に残されているということに少しばかり立ちすくんでいるのだ。
人間は言語を扱えるようになったことに伴い、一生涯をかけて己の言語を彫琢し続けることを宿命づけられた存在なのではないだろうか。自分の英語運搬能力が日本語運搬能力に日増しに近づいてきていることを実感しているのだが、日本語においても成熟の余地がこれだけ残されていることに気づかされると、両者の言語を磨き続けていくことは生涯をかけて取り組むべき一大事業なのだと思う。
構造的発達心理学の観点からも、言語の発達と意識の発達は強い相関関係があると言える。厳密には、言語の発達による内面世界の成熟が意識の発達に他ならないため、言語の発達と意識の発達は同じ現象を指していると言っても過言ではない。
確かプラグマティズムの始祖チャールズ・サンダース・パースもかつて述べていたように、言語と人間はどちらも教育によって磨かれていくのだ。私たちは自分の言語を教育することによって、自分たちの内面世界を涵養していくのである。
オランダに来てからも、毎日新しい日本語表現や語彙を発見し、それは英語においても同じである。これは自分の言語世界が未熟であることの証左なのだが、それは悲観するべきことではない。
逆にそれは、私たちの内面世界を成熟させる機会がこれからも多いに存在することを示すものであり、成熟に伴って新たな意味世界が開けていくことへの純粋な喜びを経験できる機会が豊富に残されていることを示しているのだ。
現段階においては「純粋な喜び」としか表現できないが、これこそがまさに、意味構築活動を宿命づけられた私たちが意味世界を開拓していくことへの大きな隠れた動機なのではないかと思っている。意味世界の開拓に伴って、新たな苦痛が生じるのは不可避であるが、それでも新たな意味世界が開けていくことへの純粋な喜びは、私たちの進化を支える根源的な感情だと思うのだ。
こうした根源的な感情に支えられながら、私は自分の言語を磨き続けるということを生涯にわたって遂行していきたいと思う。ダイナミックシステム理論に習熟するということ以上に、自分の言語に習熟していくことをオランダという土地で突きつけられているような気がするのだ。