昨日の夕方と本日の午前中にかけて、ヘンデリアン・スティーンビークとポール・ヴァン・ギアートの共著論文 “The emergence of learning-teaching trajectories in education: A complex dynamic systems approach (2013)”を読んでいた。この論文はダイナミックシステムアプローチのシミレーション手法を駆使しながら、教師と学習者の相互作用の動的な変化プロセスを明らかにしている。
こうした優れた論文を読んでいると改めて、シミレーション手法を活用した実証的な教育実践や人財育成を行うことの価値を感じる。学習や成長のプロセスは実に複雑であるがゆえに、直感的な支援に依存するのではなく、直感からどうしても漏れてしまう事柄を補完していくような科学的なアプローチが重要だと思うのだ。
今年と来年にかけて、特にこうしたダイナミックシステムアプローチや教育学的実証アプローチを活用した人財育成手法の開発と探求は私にとって重要な課題になると思っている。
この論文では、教師と学習者は共に複雑な動的システムとして相互作用し合い、変化のための文脈をお互いに築き上げているという点を強調しながら調査を進めている。「文脈」と言うと、どうしても私たちがそこに埋め込まれているもの、私たちの外側にあって私たちを取り巻くものだと認識されてしまいがちだが、私たち一人一人の存在自体が一つの文脈として機能することによって他者と相互作用を行っている、という視点が面白い。
要するに、文脈とは私たちを包み込むような何かというよりも、絶えず変化する私たち自身に他ならないのだ。私たちという存在を構成する思考や感情なども変化する文脈なのだ。
この論文を読みながらふと思ったのは、自分の日々の日常生活から浮かび上がってくる一つの特徴である。どうも私には、巨大な外側の世界から自分の内側の世界を守ろうとするために、自分の内側の世界に閉じこもりながらその世界を肥大させようとするような特徴があると気づいたのだ。これは一瞬の精神的な自己防衛作用の一つだと言えるかもしれない。
現在私が抱えている課題は、内面の肥大化と深化を区別することであり、深化の過程の中でいかに自己を開放系として外側の世界に開いていくか、ということにありそうなのだ。得てして内面世界を豊饒なものに深化させていくという名目の下、自分の矮小な世界の中で実践や生活を完結させようとする傾向があるので、この点を少し先に進めていく必要がありそうだ。
カート・フィッシャーが明らかにしているように、私たちは一人で学習や作業をするときには、そのパフォーマンスレベルは大抵の場合一定なのだ。フィッシャーの実証研究によって、他者からの支援や他者との共同がない場合に発揮される能力水準は「機能レベル」と呼ばれるようになったが、機能レベルの成長曲線は緩やかに連続的に推移していく。
逆に言えば、自分一人で発揮する能力の成長にはそれほど大きな変化が伴わないのだ。一方、他者と共に学習や作業を進めると、パフォーマンスレベルが起伏に富んだものとなる。他者からの支援や他者との共同によって発揮される能力水準のことをフィッシャーは「最適レベル」と命名し、これは起伏に富んだ非連続的な成長曲線を描く。
最適レベルは常に機能レベルを上回る形で発達していき、ある意味では機能レベルを引き上げていくような働きを持つ。また人間という存在が本来的に動的なシステムとして互いに影響を与え合い、相互の発達に寄与する文脈を一緒になって築き上げているのであれば、自己の閉じられた世界に居続ける限り、それ以上の成長は起こらないのではないかと思わされる。
自己の健全な孤独を保持しながら外側の世界に対して積極的に関与し、起伏に富んだ文脈の中で相互作用を行っていくための道を模索していく必要性を感じている。